プラトンは国家という書物で有名な洞窟の比喩の話を書かれています。内容は、子供のときから地下の洞窟に住んでいて、手足と首を縛られているので後ろを振り向くことすら出来ません。彼らの上方、はるかなところに火が燃えていて、その火の光が彼らの後ろから照らしています。そのような状態におかれている人たちは、自分達の正面にある洞窟の壁に、火の光で投影される影以外、見たことがありませんので、その影によって自己認識をし、お互いを理解しています。生まれたときから壁に投影された影によって自分や他人、あるいは世界を認識していますので、それ以外の世界があるという考えすら思いつかないのでしょう。また、音(声)も彼らの正面から反響して聞こえてくるとしたどうでしょう?
彼らの後ろを通りすぎていく人々の誰かが声を出すたびに、洞窟に閉じ込められた人々は、その声を出しているものが、目の前を通り過ぎていく影以外の何かだと考えるでしょうか。
ある時、彼らの一人が縛りから解放されたとしましょう。火の光のほうを強制的に仰ぎ見るように指示されたとします。いままで影によって自分自身や相手を理解していたのに、実物を見ることにより、目がくらんでよく見定めることが出来ないのではないのでしょうか。
その時ある人が彼に向かって「お前が以前に見ていたものは、愚にもつかぬものであった。しかし今は、お前は実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ」
このような内容であったと思いますが、この話に似ている本にアボットのフラットランドという書物があります。
随分以前に読んだことがありますが、霊的世界(4次元世界)を推測するうえで大変参考になった本です。
フラットランドに住む平面住人は、縦と横には移動できますが、高さ(上下)には移動できません。そのような平面世界に三次元的存在(スクエア)が来訪してくる話であったと思います。
私達、三次元に住む存在は、上下に移動できても、過去の時間と未来の時間に移動することができません。
フラットランド人は視覚を通して、あるいはいかなる推論からも『高さ』を実感することが出来ません。信仰として理解するしかないのです。
また今度くわしく書こうと思いますが、縦と横にしか空間の広がりがないフラットランド人は、『高さ』が極端に低いので簡単に感じ取ることが出来ません。
たとえば直線を私たちが見たとき、厳密にいえば、幅や高さも見ているはずです。長さしか持たなければ、三次元空間を占めることができず、私たちには見ることができないはずです。直線における高さの方向があまりにも低いため、通常は認識できないでいるだけです。三次元と四次元の関係も二次元と三次元の延長にあります。
四番目の方向が極端に小さいので観測にかからないのでしょう。四番目の方向とは素粒子の世界に関係があると自分は考えていますが、別の機会に書ければと思います。
プラトンの洞窟の話は、本来の世界、霊的世界に住んでいた私たちが、肉体に宿ることによって、霊的な感覚が極端に制限されてしまい、肉体に基づいた感覚器官という限定された機能を通してしか外界を観察することが出来なくなくなります。それを実在の影をみて自己認識しているという言葉で表現したのでしょう。
この魂の本質を考えることなしに、どのような議論を展開しても人間の本質には辿り着かないでしょう。
19世紀から20世紀にかけて実存主義哲学がはやりました。
ハイデガーの存在と時間も読んだことはありますが、難しいです。キルケゴールの『死に至る病』『不安の概念』も読んだことがありますが、あまり救われた気分にはならなかった記憶があります。(自分が理解できていなかっただけだと思いますが。)
やはり実存主義哲学は、この地上において肉体人間としての限られた世界観で、哲学を構築しているのではないかと思います。
現代的な実存主義哲学は、人間が生きていくうえで、恐怖や不安の概念、どのように生きることが人間としての正しい道なのか、その目的地が見えていないような感じを受けます。
プラトンの洞窟の話やフラットランドの話を少し書きましたが、三次元に住む私達は、実際、四次元の世界ぐらいまでが、想像できる範囲であると思います。
幸福の科学の教えには、7次元、8次元、9次元の説明がされていますので、わかったような気がするだけで、実際は5次元、6次元ですら、本当の意味で認識することは不可能に近いのではないかと自分自身は思っています。
魂こそ人間の本質で、霊的世界こそ実在の世界であるという霊的哲学を構築し、20世紀から現代にまで続いている唯物論的実存主義哲学を覆し、霊的世界における善悪の価値基準を地上に構築できれば素晴らしいことであると思います。
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