2015年07月19日

魂の教育 霊的世界と実存哲学【再掲】

魂の教育 霊的世界と実存哲学

プラトンは国家という書物で有名な洞窟の比喩の話を書かれています。内容は、子供のときから地下の洞窟に住んでいて、手足と首を縛られているので後ろを振り向くことすら出来ません。彼らの上方、はるかなところに火が燃えていて、その火の光が彼らの後ろから照らしています。そのような状態におかれている人たちは、自分達の正面にある洞窟の壁に、火の光で投影される影以外、見たことがありませんので、その影によって自己認識をし、お互いを理解しています。生まれたときから壁に投影された影によって自分や他人、あるいは世界を認識していますので、それ以外の世界があるという考えすら思いつかないのでしょう。また、音(声)も彼らの正面から反響して聞こえてくるとしたどうでしょう?
彼らの後ろを通りすぎていく人々の誰かが声を出すたびに、洞窟に閉じ込められた人々は、その声を出しているものが、目の前を通り過ぎていく影以外の何かだと考えるでしょうか。
ある時、彼らの一人が縛りから解放されたとしましょう。火の光のほうを強制的に仰ぎ見るように指示されたとします。いままで影によって自分自身や相手を理解していたのに、実物を見ることにより、目がくらんでよく見定めることが出来ないのではないのでしょうか。
その時ある人が彼に向かって「お前が以前に見ていたものは、愚にもつかぬものであった。しかし今は、お前は実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ」

このような内容であったと思いますが、この話に似ている本にアボットのフラットランドという書物があります。
随分以前に読んだことがありますが、霊的世界(4次元世界)を推測するうえで大変参考になった本です。
フラットランドに住む平面住人は、縦と横には移動できますが、高さ(上下)には移動できません。そのような平面世界に三次元的存在(スクエア)が来訪してくる話であったと思います。
私達、三次元に住む存在は、上下に移動できても、過去の時間と未来の時間に移動することができません。
フラットランド人は視覚を通して、あるいはいかなる推論からも『高さ』を実感することが出来ません。信仰として理解するしかないのです。
また今度くわしく書こうと思いますが、縦と横にしか空間の広がりがないフラットランド人は、『高さ』が極端に低いので簡単に感じ取ることが出来ません。
たとえば直線を私たちが見たとき、厳密にいえば、幅や高さも見ているはずです。長さしか持たなければ、三次元空間を占めることができず、私たちには見ることができないはずです。直線における高さの方向があまりにも低いため、通常は認識できないでいるだけです。三次元と四次元の関係も二次元と三次元の延長にあります。
四番目の方向が極端に小さいので観測にかからないのでしょう。四番目の方向とは素粒子の世界に関係があると自分は考えていますが、別の機会に書ければと思います。

プラトンの洞窟の話は、本来の世界、霊的世界に住んでいた私たちが、肉体に宿ることによって、霊的な感覚が極端に制限されてしまい、肉体に基づいた感覚器官という限定された機能を通してしか外界を観察することが出来なくなくなります。それを実在の影をみて自己認識しているという言葉で表現したのでしょう。

この魂の本質を考えることなしに、どのような議論を展開しても人間の本質には辿り着かないでしょう。
19世紀から20世紀にかけて実存主義哲学がはやりました。

ハイデガーの存在と時間も読んだことはありますが、難しいです。キルケゴールの『死に至る病』『不安の概念』も読んだことがありますが、あまり救われた気分にはならなかった記憶があります。(自分が理解できていなかっただけだと思いますが。)
やはり実存主義哲学は、この地上において肉体人間としての限られた世界観で、哲学を構築しているのではないかと思います。
現代的な実存主義哲学は、人間が生きていくうえで、恐怖や不安の概念、どのように生きることが人間としての正しい道なのか、その目的地が見えていないような感じを受けます。

プラトンの洞窟の話やフラットランドの話を少し書きましたが、三次元に住む私達は、実際、四次元の世界ぐらいまでが、想像できる範囲であると思います。
幸福の科学の教えには、7次元、8次元、9次元の説明がされていますので、わかったような気がするだけで、実際は5次元、6次元ですら、本当の意味で認識することは不可能に近いのではないかと自分自身は思っています。

魂こそ人間の本質で、霊的世界こそ実在の世界であるという霊的哲学を構築し、20世紀から現代にまで続いている唯物論的実存主義哲学を覆し、霊的世界における善悪の価値基準を地上に構築できれば素晴らしいことであると思います。


ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 20:17 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月12日

悟りと霊能力と妄想とピッポ

悟りと霊能力と妄想とピッポ氏

一部の人は霊能力が、直接、悟りと直結していると勘違いし、傲慢になっています。
相手のことよく理解もしていないのに、霊能力あるいは、霊的体験がないと判断して見下した発言をします。

ピッポ氏は
「霊的現象の入り口にさえ、たっていない!その立場で、貴方は何を批評しているのですか?」
と発言しています。
この言葉に含まれている意味を考えてみますと、霊的能力?がある自分は、霊的に鈍感なガンブロよりすぐれていると考えていると思われます。立場が上だと思っているので発言が常に命令形です。

霊的体験があって人に話そうとする人、あるいは、自分の一体験として心におさめておく人、それぞれですが、ピッポ氏は霊界からインスピレーションが降りて来て(どこの霊界かはわかりませんが・・)それを受け止めることができる自分を神?だと考えているのでしょう。

ですから、誰それかまわず霊と聞くと、何の価値判断もできずに、のこのこと信じてしまいます。
また、
「教学の正しさを、現行で検証しています。教学と霊的現象とを、どちらの側からも、検証し続けて居ます」とのべています。

しかし、ピッポおじさまの記事は人に対して命令口調で発言し、思想性あるいは、法として内容がある記事を見たことがありません。(私が見落としていたらすいません)

ポン吉に関しても、話をすりかえ勝手に捏造しないでください。
「自分とは性格のあわない会員は否定すれば、幸福の科学は発展する!とでも」と書いていますが、私がそのような発言をしましたか?
これは、貴方の妄想癖がよくあらわれています。
自分で勝手にこうだと思こみ妄想が膨らんで行きます。ご自身は30年近くやってこられたといわれていますが、私から言わせれば、30年だろうと50年だろうと悟りとはあまり関係ないように思えます。
誤解される表現かも知れませんが、年数はあまり関係がありません。
それは、あなたの傲慢な表現、霊能力(霊障力)自慢、思想性に関する記事が皆無(もしあるなら再掲示して読ませてください)を見れば明らかです。

また、ガンブロが30年何をしていましたか?それを問いたいとありますが、あまり自分のことは言いたくありませんが、それなりに89年、90年以降の伝道期にも私なりには頑張っていたと思いますよ。
東京ドームのボランティアにも毎回出ていました。(会社には嘘をついて休んでいましたが)

更に、
「貴方は、【正心法語】を否定なさるおつもりか?」と書いていますが、私がいつ否定しました??
ちなみに、私は仏説・正心法語の全編、エル・カンターレへの祈り全編を暗記しています。
祈願文1・2もほぼ暗記していますが、朝祈りができないときは、どのような場所でも心の中で祈ることができますので、ピッポ氏に言われるほど落ちぶれていないと思います。

更に、
「貴方は、教学の本質を、知らない!!」と締めくくっていますが、それはあたっていると思いますよ
確かに私には知の本質、教学の本質はわかりません。

更に、私を教学しかしていないガチガチな会員と勘違いしているようですが、私は結構、社交的な人間でブログだけで私がどのような人物か推測がつかないと思います。

私と直接会ったことのある人であれば、上記の意味を理解してくれると思いますが(笑)。


ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 23:20 | Comment(12) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。