この地上、三次元物質の世界は有限性(不完全性)のために、自己の中で常に対立矛盾が発生します。それを止揚統合されながら、個人や社会は発展していくとヘーゲルは述べていたと思います。
止揚とは、弁証法的発展においては、低い段階の否定を通して高い段階に進んでいく運動法則です。
この高い段階の中に低い段階が包含されています。
例えば有と無は対立関係にあり矛盾しますが、両方を否定した生成のなかに有と無を統一していく運動法則があると思います。
例えば、平面的には有か無かどちらかを選択することで片方を否定していくことになりますが、立体的に見れば両方を包含することが可能になります
図の座標を参照すると、X軸だけで考えると有か無かどちらか以外に選択する方法はありませんが、仮に、Xをこの世の存在を肯定する実存的立場で有(世俗諦)とすれば、Y軸に、この世は常に変転変化するゆえに本質的な世界ではないとする無(第一義諦)とすればX軸とY軸が交差する(ab)は有でもあり無でもありますが、有でもなく無でもないと言えるのではないかと思います。
0から(ab)に線を引くと下図になり、三次元的(立体的)に見ると対立矛盾する存在や関係は統合されていくことがわかります。
それは一段発展した姿であるとも思えます。しかし個人や世界においては常に変転変化しているので、常に対立、矛盾が発生しますが、それを統合する過程で個人や世界が段階的に発展していくものと思います。
正・反・合の関係で人類は発展していきます。この三次元の物質世界の意味は、高次元の視点からみれば、低いエネルギー状態にあるかもしれません。
常に善と悪、陰と陽、山と川というような二律背反する世界であり、これを統合する過程に人間の認識力の向上や世界の発展繁栄があり、その先には光一元の世界観があると思います。
単純に一元的な考え方でなく、正・反・合の繰り返しによって矛盾する関係が統一止揚されるということです。
弁証法的な考え方はだいたい以上で中道との関係や共通性を考えてみたいと思います。
実践的観点の中道は、苦楽の中道と言われています。極端に肉体を苦しめる苦行も、刹那的に生きる生き方や自分の肉体を楽しませる快楽中心的な生き方も、どちらも魂の向上にとって正しいあり方ではありません。
適度な集中力や緊張感を持ちながらも、くつろいだ状態を持つように努力することが大切であると教わっています。
中道的観点で物事を観察し判断するということは、自分の見方や考え方をいったん脇に置いて白紙の状態で物事を洞察することだと教わっています。
また、「断常の中道」という考え方、断とは人間は死んだら何もかもなくなっていくという唯物論的な考え方です。
また、常とは今の自分の存在形態や思考形式などが霊的世界においても、地上の延長線上にあり、そのあり方が永遠に続いていくという考え方。どちらも両極端な考え方であるといわれています。
天台大師智が説かれた三諦円融、空諦・仮諦が融合していく過程にあらわれる中諦という真実の世界観が、弁証法的な運動法則、対立矛盾する価値観を一つ上の段階で統合していく中に人類の発展があるとする考え方と、共通していると思えます。
世界の歴史は偶然の産物ではなく、神の世界計画を感じざるを得ないと感じます。
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学