2015年07月29日

観念論哲学の弁証法と仏教的中道の共通点

観念論哲学の弁証法と仏教的中道の共通点

この地上、三次元物質の世界は有限性(不完全性)のために、自己の中で常に対立矛盾が発生します。それを止揚統合されながら、個人や社会は発展していくとヘーゲルは述べていたと思います。
止揚とは、弁証法的発展においては、低い段階の否定を通して高い段階に進んでいく運動法則です。
この高い段階の中に低い段階が包含されています。
例えば有と無は対立関係にあり矛盾しますが、両方を否定した生成のなかに有と無を統一していく運動法則があると思います。
例えば、平面的には有か無かどちらかを選択することで片方を否定していくことになりますが、立体的に見れば両方を包含することが可能になります
図の座標を参照すると、X軸だけで考えると有か無かどちらか以外に選択する方法はありませんが、仮に、Xをこの世の存在を肯定する実存的立場で有(世俗諦)とすれば、Y軸に、この世は常に変転変化するゆえに本質的な世界ではないとする無(第一義諦)とすればX軸とY軸が交差する(ab)は有でもあり無でもありますが、有でもなく無でもないと言えるのではないかと思います。

デカルト座標 1.jpg
0から(ab)に線を引くと下図になり、三次元的(立体的)に見ると対立矛盾する存在や関係は統合されていくことがわかります。

デカルト座標 2.jpg

それは一段発展した姿であるとも思えます。しかし個人や世界においては常に変転変化しているので、常に対立、矛盾が発生しますが、それを統合する過程で個人や世界が段階的に発展していくものと思います。
正・反・合の関係で人類は発展していきます。この三次元の物質世界の意味は、高次元の視点からみれば、低いエネルギー状態にあるかもしれません。
常に善と悪、陰と陽、山と川というような二律背反する世界であり、これを統合する過程に人間の認識力の向上や世界の発展繁栄があり、その先には光一元の世界観があると思います。
単純に一元的な考え方でなく、正・反・合の繰り返しによって矛盾する関係が統一止揚されるということです。
弁証法的な考え方はだいたい以上で中道との関係や共通性を考えてみたいと思います。

実践的観点の中道は、苦楽の中道と言われています。極端に肉体を苦しめる苦行も、刹那的に生きる生き方や自分の肉体を楽しませる快楽中心的な生き方も、どちらも魂の向上にとって正しいあり方ではありません。
適度な集中力や緊張感を持ちながらも、くつろいだ状態を持つように努力することが大切であると教わっています。

中道的観点で物事を観察し判断するということは、自分の見方や考え方をいったん脇に置いて白紙の状態で物事を洞察することだと教わっています。

また、「断常の中道」という考え方、断とは人間は死んだら何もかもなくなっていくという唯物論的な考え方です。
また、常とは今の自分の存在形態や思考形式などが霊的世界においても、地上の延長線上にあり、そのあり方が永遠に続いていくという考え方。どちらも両極端な考え方であるといわれています。

天台大師智が説かれた三諦円融、空諦・仮諦が融合していく過程にあらわれる中諦という真実の世界観が、弁証法的な運動法則、対立矛盾する価値観を一つ上の段階で統合していく中に人類の発展があるとする考え方と、共通していると思えます。

世界の歴史は偶然の産物ではなく、神の世界計画を感じざるを得ないと感じます。






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posted by ガンちゃん at 16:15 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月26日

人生の疑問を解く転生輪廻と努力の意味

人生の疑問を解く転生輪廻と努力の意味

人生において同じ人間であっても、身体的ハンディや家庭環境の不遇など地上的な視点からでは、説明が付けられないことがあります。
人間は平等であるといっても、それは心の法則がすべての人に同じ働きをする平等であって、現実的には同じ人間であっても、幸せな人と思える人、不幸な人等いろんな人生があります。


人間は新しい体験をするために地上に生まれ変わってきます。
これは、当会のみの思想いではなく、人智学シュタイナーや神智学でも言われていることだと思います。
人によって、生まれ変わってくる周期が違うと思いますが、地上での様相が変化した時、新たな地上での様相のなかで、新たな経験を積んでいき、人生という書に新しいページを書き加えます。
地上での様相が一変すると、魂は地上での新しい経験を積むことができます。
新しい環境で、新しい経験を積みことが魂の成長につながっていくのでしょう。
それが仏の計画の一つであり、転生輪廻の意味であると考えられます。

仏教では、空の思想が大切な考えであるといわれています。
仏教的な空の意味は、一切諸法は、他の法(存在)に条件づけられて成立していますから、固定的・実体的な本性を有しないものであり、無自性であります。
無自性、自らなる性質がないものは空であるといわれています。

これは地上に対しての執着を戒め、霊的世界こそ真実の世界であるということを間接的に説明した教えであると思います。
転生輪廻の思想自体が、霊的世界を前提とし、人間の本質が霊的なものであるということが土台になっています。
科学者のパスツールは以下のように述べています。
「科学の道を少し進むと神から離れる。だが、科学を究めれば神に回帰する」
フランシス・ベーコンも似たような言葉を述べていたと思いますが、真実の世界観を探究しようとするとき、霊的世界や神仏の存在を認めざるを得なくなります。

人間は自然発生的に地上に誕生したわけではありません。
唯物的科学者は、生命現象の問題、宇宙の誕生等、根本的な問題に関して、すべて偶然にし、たまたまそのような環境ができたからだとか、答えにならない答えをします。
間違った哲学者も目に見えない霊的世界を否定し、人間を唯物的存在に貶めます。

真実の宗教は、人間の本質は永遠の魂であり、努力に応じた結果が自分に帰ってくる因果の理法を説きます。
その因果関係は、地上的にみると原因と結果が結びついていないようにもみえます。
しかし、過去世における転生の違いによる結果が現在の自分の境涯に反映されていると考えるなら、因果の理法が成立します。
同じ人間でありながら、なぜ自分がこのような不幸な境涯にあるのかと思う人は、過去の転生における行為が、今世、結果としてあらわれていると考えることで人生の疑問が解けると思います。

また、私達は昔の記憶を徐々になくしていきます。
小さかったときの子供の頃の記憶は、思いだすのが難しいです。ましてや前世の記憶を覚えている人は少ないでしょう。
しかし、人生で学んだエキス、成果は魂に記憶されます。人生で学びとった収穫は、次の人生に持ち越すことができます。

さまざまな記憶像は消えてなくなりますが、人生で努力して得たエキスは自分の能力として持ち越すことができると思います。
転生輪廻の持つ意味がここにもあります。もし前後の関係なしに受肉を繰り返すのであれば転生輪廻の意味がありません。

転生輪廻を信じることで、努力の大切さがよく理解できるのではないかと思えます。


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posted by ガンちゃん at 18:45 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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