現在の混乱の一つに、人間側の理解の限界による宗教間の争いがあります。それぞれ信じる神の違い、教義に違いにより、争いが生じました。
その争いに便乗して、地獄のサ○ンや悪霊たちが、更に混乱を引き起こします。
その結果、日本においては政教分離、学校教育においても特定の宗教を教えることが許されていないという状況です。結果、唯物論という幼稚な考え方が、日本中に広がってしまいました。
霊的世界の存在を、霊言を通して実証し、どのような修行をし、どれだけの実績を残せたならば、どの世界に帰れるのか、人類の指針というべき教えが説かれています。
現在、数千年にわたって人類を導くための宗教が創造されています。
この救世運動を邪魔しようとする勢力も現実に存在します。
主の教えを信じないというだけでなく、積極的に主を批判する人達がいます。
キリスト教では、聖霊を汚す罪は大変、重い罪として位置づけています。
マルコによる福音書にはこのように書かれています。
「しかし、聖霊を汚す者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。そう言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。」
彼らとは、律法学者のことでイエス様に対して、「彼は、ベルゼブルに取りつかれていると言い、悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ、とも言った。」と書かれています。
たしかに、悪霊同士でも力関係で、念の強い悪霊ほど他の悪霊を追い出して、人間に憑依できるのかもしれませんが、基本的には悪霊を追い出すのは、悟った方や聖者による法力であって、悪霊に憑依されている者に、悪霊を追い出すことができるわけがないと考えます。
仏教にしても、聖者に対して悪意をいだき、そしる者は大変な罪を犯していることになります。
以下に仏典から引用します。
「人は生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬り割くのである。そしるべき人を誉め、また誉めるべき人をそしる者 彼らは口によって禍をかさね、その禍ゆえに幸せを受けることができない。
賭博に負けて財を失う人は、たとい自分を含めて一切を失うとも、その不運は僅かなものである。
しかし立派な聖者(ブッダ)に対して悪意をいだく人の受ける不運(罪)はまことに重いのである。
悪口を言い、また悪意を起こして聖者をそしる者は巨大な年数のあいだ地獄におもむく」と書かれています。
因果律や縁起の理法は真理であり、過去における自分自身の思いや行動が、現在の自分に帰ってきていると考えるのが正当な考えであると思います。
感覚器官や、地上的な価値観に基づいた判断で、聖者を聖者とは思わずに批判した場合、その罪は許されることがないとは聖書でも仏典でも書かれていますので、「聖霊を汚す罪は重い」という言葉は真実であると考えて間違いないと自分は判断します。
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