HS会員になる前は、実はキリスト教にひかれていました。
当時は、キリスト教の愛の教えと、仏教の慈悲が似ているな〜、宗教の本質は洋の東西を問わず、他人に対しての、優しい気持ちが大事なのだなーぐらいの感覚でした。
また、正直なところ、キリスト教の教会の美しさや絵画、宗教音楽やステンドクラスなど、キリスト教の教え以外でも、見た目の美しさなど、世界の宗教の中では、一番素晴らしいという気持ちを持っていたと思います。
また、当時の仏教に関しての正直な気持ちは、何でこんな難しい内容の教えで、人が救えるのだろうかという気持ちと、感性的な部分での見た目の美しさや、宗教音楽に関しても、ぜんぜん違うなーと、単純に感じていました。
また、亡くなられた人の服を継ぎ合わせて、柿色に染めて衣服を身につけて修行していたと言う点で、当時の感想としては、いくら何でも、そんな服なんか着て、気になって修行なんかできのるか?など、たわいもない疑問も持っていました。
やはり、教会の静寂した中で、一人美しい女性が、神に対して真剣に祈っている姿は、その姿事態に自分の醜い心に対しての懺悔というか反省の気持ちを起こさせて、自分自身を振り返るきっかけになっていたと思います。
現時点での今の自分の認識から見て、聖書の福音書を読み返してみると、また違った視点で感じるものがあります。
当時は、意味がよく理解できなかった内容で以下の話があります。
『もし、誰かが、あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には上着を与えなさい』と言うイエス様の言葉があります。
今でも理解しているとは言えませんが、どのような意味で理解し実践すべきかわかりません。
もしかしたら、キリスト教的な無我の教えかな…と思えたりします。怒りや欲望に対して、無我の気持ちで接しなさい。という意味かもしれません。憎しみに対して憎しみで返すなという教えだと思いますが。
また、『敵を愛し、迫害するもののために祈れ』と言う教えがありますが、なぜキリスト教国が、他の国に対して、侵略したりできるのか不思議でありました。(今は新約聖書の教えに旧約聖書ユダヤ教の教えが入りこんでいるためだとわかりましたが)
また、『あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになる、あなたの父に祈りなさい』とあります。
これは、いかにも自分は誰よりも信仰心があつく、”主”を信じ、誰よりも悟りが進んで自分の境地は菩薩や如来ですと外にアピールするなということを意味しているかもしれません。
また、『目は体の明かりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいであろう』とあるが、心の清らかさや、精神性の高さや悟りの内容によって、外見に現われると言うことでしょう。
一番、体の中で心の状態が反映されるのが目と言うことでしょうから、ある程度、外見で判断するとしたら目を見るのも一つの方法かもしれません。
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