2015年03月22日

自我と無我は表裏一体

自我と無我は表裏一体

宇宙の存在形式は常にバランスの法則が働いていると思えます。
陰と陽、光と影というように、すべては対をなして存在しています。
自我と無我は対立関係にあると同時に、お互いが補完関係にあるようにも思えます。

仏教の旗印と言われています三法印の一つに、諸法無我という教えがあります。

存在は原因や条件に依存しているので実態ではないと考えます。
また、恒常的なもの・形を変えないものはこの物質の世界にはなく、感覚的なものはいつか時間の流れの中で滅びゆく存在であるといわれています。
地上においては、諸行無常ゆえに、すべては変転変化していきます。地上的存在は本質的ではないので、この世は仮の存在であるという考えにいきつきます。

しかし、この世は仮の存在であるといっても、仏教の修行論、戒・定・慧を否定しているわけではありません。
現在の仏教学者は、無我説を五蘊の仮和合、「色・受・想・行・識」であると解釈しています。肉体、感受作用、表象作用、行動(意志の作用)、認識作用これらが仮に和合して人間なるものができており、死んだあとはすべてがバラバラになって雲散霧消して霊気のようななんだかわからないものに拡散していく。と考えているようです。(法華経信者もこのような考え方をしていると思われます。)

自己の完成を目指す修業論は、すべての宗教において大切な位置付けであると思います。しかし、自力に傾きますと、自分がという思いが強くなるので、自己を確立していく修行が大切であると同時に、自我を否定していく無我の教えも大切になってきます。

また、自己を完成していくための修行がない無我の教えは、空っぽの袋は立たないといわれているように、世間の荒波に流されるだけです。

自我といいますか自己確立と無我の教えは、車の両輪でお互いに関係しながら前進するものだと思えます。どちらか一方では駄目で、補完関係になっていますので同時に必要なものであります。

仏の教えは、対立矛盾する関係を統合していく弁証法的、あるいは両極端を否定した中道にあると思えます。



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posted by ガンちゃん at 02:17 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月20日

思いによって見ている世界が違います

思いによって見ている世界が違います

事物を観察する時、私達は、視覚を通して情報を取り入れています。
しかし、視覚を通して得た知覚内容は人それぞれです。
同じ対象に対して、違った認識の仕方をします。『事物は何も変わりがなかった。私がそれを違ったように見るだけだ』と考える哲学者もいます。

我々は対象を観察しますし、それに対していろんな解釈をします。逆に言うと解釈したようにしか世界が見えないとも言えます。

例えば、一流の物理学者がある実験を観察するのと、一般の人がその実験を観察するのと同じように理解しているだろうか?と考えると答えはイエスであり、ノーでもあります。イエスと言うのは両者とも視覚的に知覚しているからであり、ノーと言うのは両者の視覚による知覚内容、知覚の様式がきわめて、違うからであります。

その物理学者が見る知覚内容と同じような認識を持つには同じだけの知識をもつ必要があります。
人智学的には、自分のうちにある概念と視覚内容を関連付けるためには思考を通じて結び付ける必要があります。

対象を見るということに、知識が持ち込まれています。
例えば、ある人が細菌を見たと言った場合、その人は、視覚内容と同時に、細菌に関しての知識がなければ見たということになりません。
なぜなら、視覚的に細菌を観察しても、知識として細菌を知らなければ、観察した視覚内容を、細菌として理解できないと思うからです。

これは霊的世界に関しても同様であり、霊と言うものを知識として知らず、また最初から信じようとしない唯物的人間は、たとえ霊的な存在を見たとしても、知識としての基礎的な部分が欠落しているので、すべてが脳の作用、幻覚という認識になってしまいます。

つまり、霊的世界観を体験として、あるいは経験的になかったとしても基礎知識として持っていれば、世界は違って見える可能性があるということである。

思考とは、一般的に何を意味しているのでしょうか。動物にも植物にも、人間にも魂があると言われています。すると動物や植物と人間を分ける基準と言うべきものがあるのではないでしょうか。
動物や植物、人間をわけるものは、『思考内容の違いにある』と考えることができると思えます。
『動物にも備わっている魂を精神に作りかえるのは思考の働きである』とヘーゲルは言っています。
ヘーゲルの言う精神とは、非常に霊的な、神や仏につながっている神性や仏性に近い意味があると自分は理解しています。
その意味で、人間の思考、思考内容こそが人間らいし、人間の特徴を与えていると考えることができると思います。
つまり人間の本質は、思考そのものであり、考えであると言えると思います。

通常私たちの前に現れる知覚像は、対象そのものにではなく、知覚するわれわれに依存しているといえます。事物は我々の感覚器官の性質、機能に依存した形で認識されます。砂糖を甘く感じるのは舌の機能・性質により、甘いと認識しているだけで、砂糖事態の本質が甘いがどうかはわかりません。
なぜなら、舌の機能が変われば、砂糖を嘗めても同じような甘さを、感じるかどうか分からないからです。

思考こそが人間の本質だとすると、人格とは思考内容が反映された結果でもあると考えることが可能であると思います。

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posted by ガンちゃん at 01:53 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする