ゲーテは、「本当の宗教はただ二つしかない。そのうちの一つは、われわれの中および、まわりにある聖なるものを、まったく形をはなれて認め、敬う宗教であり、もう一つは、もっとも美しい形において認め、敬う宗教である」と言っています。
聖なるものを、まったく形を離れて認める宗教は、基本的に教義、教えがある宗教で、この教えに則って教学を学び深めていく過程で、自分自身の認識力が高まり、宗教的人格が形成され、その徳の力で周りの人を感化していくような宗教だと思います。
もう一方の、美しい形において認め敬う宗教とは、信仰の対象を通して、霊的につながることを意味していると考えますが、例えば、マリア像やイエス・キリストの像に対してお祈りをしたり、仏像を拝んだりすることで、教学をしっかり学び智を中心とした宗教というよりは、信心を中心とした宗教であると考えられます。
教学を学び自己を深めていく宗教は自力門であり、信仰の対象に対してお祈りを捧げる宗教は他力門に分類され、ゲーテは、本当の宗教とは自力門か他力門のどちらかの形式をとると理解していたかもしれません。
日本人の持つ宗教意識あるは宗教観とは、どのようなものなのかを、渡辺昭宏氏の著書を参考にして考えてみます。
御経を毎日読んでいる僧侶が、いったいどの程度、内容を理解していのでしょうか。日本の仏教教団としては、経典の内容を理解するためのものではなく、儀礼に用いるのが第一義であるようです。
一般的に日本人は宗教的体験を内面的実質的に求めようとせずに、形式のうえで把握しようとする傾向があると思えます。仏教の教義や倫理観、生活態度を学ぶより先に、寺院を建て、仏像を作り、儀礼を営むことを覚えました。日本人は外観や形式を覚えることに関しては異常なほどの才能を示しました。外観に見合った内面性や教義、倫理観がともなっていなかったので必然的に形式主義がはびこっていったと考えられます。
信仰の対象として考えられるさまざまな姿をした仏陀も、『智慧』と『慈悲』とを根本的な特質とする、といわれています。すべての生きとし生けるものが救済の対象になります。本来、仏教は解脱の宗教と認識されていますが、救いの宗教でもあるのです。
一般的には、自助努力し智慧を完成し解脱する宗教的方向に向かわずに、救済の宗教に行きやすいようです。救済の方に向かえば、当然、そこには他力信仰がでてくると考えられます。
自己の努力によって自分の理想を追求するというものではなく、人間をこえた存在(仏陀や神、菩薩、天使)の慈悲によって救済されるという思想です。
しかし、インドの文献によると、他力による救済は決して窮極的なものではないとのことです。例えば信仰によって浄土に生まれるとすれば、それで最後の理想に達したということにはなりません。
ところが仏教が中国に来ると、別の来世観がでてきまして、浄土に生まれること自体が窮極的な理想という考えも出てきました。その思想が日本に入ってくると、さらに簡素化されて、生理的な死と、極楽浄土と成仏がいう三つが混同され、しかも僧侶の営む宗教儀礼によってこれが実現されることになりました。死人をホトエといい、読経や念仏をもって菩提をとむらうというような言い方が、何の疑念もなく受け取られるという点まで堕落しました。
人間の理想実現の追求という仏教の根本理念が、死霊の儀礼という行事にすり替えられてしまいました。
日本には特に、法華経教団が多いことに驚きます。
法華経教団の特徴は一概には言えないかもしれませんが、私が外部から観察した範囲では、『南無妙法蓮華経』を何万回唱えれば救われるという内容だと思えます。
法華経に関しては、私では到底、太刀打ちできないほど詳しい方もいるようです。
南無とは、尊いものに帰依するという意味で、妙法とは妙なる教え仏法のことです。蓮華とは、あの汚い泥沼に咲く美しい蓮華、教とは教えという意味で、「あの泥沼にさく美しい蓮華のような尊い仏法に身も心もささげます」というような意味だと思いましたが、何回何百回と南無妙法蓮華経を唱えても、苦しみの原因を取りのぞかない限り、苦しみはなくならないと思えますし、その原因を八正道という正しさの基準で照らしながら、誤った思いや行動は反省することが大事ですと教わっています。(自分もできていませんが)
日本の場合、南無妙法蓮華経の題目を唱える日蓮宗や座禅をすすめる道元禅も、抽象観念まで届いておらず具体的で形式のところだけをまねしているので、必然的に唯物論に流れてしまうのかもしれません。
仏教の基本教義は、『三法印』といわれています。
第一の法印は、諸行無常です。
すべての存在は、河の流れのように時間の流れの中で変化し続けていき、変化しないもの固定的なものはありません。存在は無自性で滅びを内包しています。
第二の法印は、諸行無我です。
もの自体は、単一で成り立っているものはありません。すべては、他に依存しながら存在しているのであり、自立的なものはありません。すべては無常であり、移り変わり消滅していきます。すべてのものは永遠に自己同一性を保ち続ける本質、実体はありません。すべての存在は無我(自ずからなる性質がない)であります。
第三の法印は、涅槃寂静です。
すべての修行者の目標とすべき到着地点は、この涅槃と言われています。解脱が束縛からときはなれた自由の境地であるとするならば、涅槃は平和の境地と教わっています。
仏の三法印で仏教の旗印です。
そして、空の悟りを知っていくためには修行論が展開していきます。仏教の修行とは、「戒・定・慧」の三学です。
戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。智慧を得ることでこの世的な束縛、執着を断ち切る力を得る。沈黙の仏陀 参照
正当な仏教であるかどうかの判断は、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三法印と修行論の戒・定・慧の三学が説かれているかどうかで判断できると思います。
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