2015年02月08日

本来の仏教と日本の仏教

本来の仏教と日本の仏教

ゲーテは、「本当の宗教はただ二つしかない。そのうちの一つは、われわれの中および、まわりにある聖なるものを、まったく形をはなれて認め、敬う宗教であり、もう一つは、もっとも美しい形において認め、敬う宗教である」と言っています。
聖なるものを、まったく形を離れて認める宗教は、基本的に教義、教えがある宗教で、この教えに則って教学を学び深めていく過程で、自分自身の認識力が高まり、宗教的人格が形成され、その徳の力で周りの人を感化していくような宗教だと思います。
もう一方の、美しい形において認め敬う宗教とは、信仰の対象を通して、霊的につながることを意味していると考えますが、例えば、マリア像やイエス・キリストの像に対してお祈りをしたり、仏像を拝んだりすることで、教学をしっかり学び智を中心とした宗教というよりは、信心を中心とした宗教であると考えられます。
教学を学び自己を深めていく宗教は自力門であり、信仰の対象に対してお祈りを捧げる宗教は他力門に分類され、ゲーテは、本当の宗教とは自力門か他力門のどちらかの形式をとると理解していたかもしれません。

日本人の持つ宗教意識あるは宗教観とは、どのようなものなのかを、渡辺昭宏氏の著書を参考にして考えてみます。
御経を毎日読んでいる僧侶が、いったいどの程度、内容を理解していのでしょうか。日本の仏教教団としては、経典の内容を理解するためのものではなく、儀礼に用いるのが第一義であるようです。

一般的に日本人は宗教的体験を内面的実質的に求めようとせずに、形式のうえで把握しようとする傾向があると思えます。仏教の教義や倫理観、生活態度を学ぶより先に、寺院を建て、仏像を作り、儀礼を営むことを覚えました。日本人は外観や形式を覚えることに関しては異常なほどの才能を示しました。外観に見合った内面性や教義、倫理観がともなっていなかったので必然的に形式主義がはびこっていったと考えられます。


信仰の対象として考えられるさまざまな姿をした仏陀も、『智慧』と『慈悲』とを根本的な特質とする、といわれています。すべての生きとし生けるものが救済の対象になります。本来、仏教は解脱の宗教と認識されていますが、救いの宗教でもあるのです。
一般的には、自助努力し智慧を完成し解脱する宗教的方向に向かわずに、救済の宗教に行きやすいようです。救済の方に向かえば、当然、そこには他力信仰がでてくると考えられます。
自己の努力によって自分の理想を追求するというものではなく、人間をこえた存在(仏陀や神、菩薩、天使)の慈悲によって救済されるという思想です。

しかし、インドの文献によると、他力による救済は決して窮極的なものではないとのことです。例えば信仰によって浄土に生まれるとすれば、それで最後の理想に達したということにはなりません。
ところが仏教が中国に来ると、別の来世観がでてきまして、浄土に生まれること自体が窮極的な理想という考えも出てきました。その思想が日本に入ってくると、さらに簡素化されて、生理的な死と、極楽浄土と成仏がいう三つが混同され、しかも僧侶の営む宗教儀礼によってこれが実現されることになりました。死人をホトエといい、読経や念仏をもって菩提をとむらうというような言い方が、何の疑念もなく受け取られるという点まで堕落しました。
人間の理想実現の追求という仏教の根本理念が、死霊の儀礼という行事にすり替えられてしまいました。

日本には特に、法華経教団が多いことに驚きます。
法華経教団の特徴は一概には言えないかもしれませんが、私が外部から観察した範囲では、『南無妙法蓮華経』を何万回唱えれば救われるという内容だと思えます。
法華経に関しては、私では到底、太刀打ちできないほど詳しい方もいるようです。
南無とは、尊いものに帰依するという意味で、妙法とは妙なる教え仏法のことです。蓮華とは、あの汚い泥沼に咲く美しい蓮華、教とは教えという意味で、「あの泥沼にさく美しい蓮華のような尊い仏法に身も心もささげます」というような意味だと思いましたが、何回何百回と南無妙法蓮華経を唱えても、苦しみの原因を取りのぞかない限り、苦しみはなくならないと思えますし、その原因を八正道という正しさの基準で照らしながら、誤った思いや行動は反省することが大事ですと教わっています。(自分もできていませんが)

日本の場合、南無妙法蓮華経の題目を唱える日蓮宗や座禅をすすめる道元禅も、抽象観念まで届いておらず具体的で形式のところだけをまねしているので、必然的に唯物論に流れてしまうのかもしれません。


仏教の基本教義は、『三法印』といわれています。
第一の法印は、諸行無常です。
すべての存在は、河の流れのように時間の流れの中で変化し続けていき、変化しないもの固定的なものはありません。存在は無自性で滅びを内包しています。

第二の法印は、諸行無我です。
もの自体は、単一で成り立っているものはありません。すべては、他に依存しながら存在しているのであり、自立的なものはありません。すべては無常であり、移り変わり消滅していきます。すべてのものは永遠に自己同一性を保ち続ける本質、実体はありません。すべての存在は無我(自ずからなる性質がない)であります。

第三の法印は、涅槃寂静です。
すべての修行者の目標とすべき到着地点は、この涅槃と言われています。解脱が束縛からときはなれた自由の境地であるとするならば、涅槃は平和の境地と教わっています。

仏の三法印で仏教の旗印です。
そして、空の悟りを知っていくためには修行論が展開していきます。仏教の修行とは、「戒・定・慧」の三学です。
戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。智慧を得ることでこの世的な束縛、執着を断ち切る力を得る。沈黙の仏陀 参照
正当な仏教であるかどうかの判断は、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三法印と修行論の戒・定・慧の三学が説かれているかどうかで判断できると思います。



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2015年02月05日

龍樹の空とアウグスティヌスの時間 慈悲との関係

龍樹の空とアウグスティヌスの時間 慈悲との関係

龍樹は紀元2世紀頃、インドに出て大乗仏教の中興の祖と言われ、さまざまな宗派の宗祖になったという意味で八宗の祖とも言われています。
龍樹の空の思想とは、この地上において本当の意味で実在するものは何も存在しません。あらゆるものは見せかけだけの現象にすぎません。つまり、いかなるものであってもその本質を欠いているということです。
あらゆる事物は、他のあらゆる事物に条件づけられて起こってきます。空とはけっして無ではなく、断滅でもありません。肯定と否定をこえたものであり、「有」と「無」をこえたものでもあります。
ですので、空とはあらゆる事物の依存関係にほかなりません。すべてのものは相依って成立しています。
例えば、ある物を「長い」といいます。「長い」というのは、「短い」という観念に依存して成立しています。逆に、「短い」という観念は「長い」という観念に依存して成立しています。
「清らか」という価値表示的観念は「不浄」という同じく価値表示的観念に相互依存しています。
いろんなものが相互依存、相互限定して成立しています。これは縁起とも言います。いかなる存在であっても、孤立したものではありえません。
龍樹の思想の根本は空の思想です。龍樹の多くの著書の中で有名なのは『中論』だと思いますが、中論の『中』とは正しさという意味であり、中道のことだと理解しています。二つの対立した極端がある時に、そのどちらでもないということです。固定的な観念はすべて否定しています。

龍樹は次のように述べています。
「去るはたらきなるものが、即ち去る主体であるというのは正しくない。また、去る主体が去るはたらきからも異なっているというのも正しくない。」
一般的に、ものが去っていく場合<去る主体>があり、それと<去るはたらき>が同時にあると考えます。しかし、<去る主体>と<去るはたらき>が同一のものであるなら、2つの言葉があるわけがありません。また、<去る主体>と<去るはたらき>両者が別のものであるならば、この二つはどうして結びつくのか?だから<去る主体>と<去るはたらき>は別のものと考えても、同一のものと考えても<去るはたらき>は成立しないと述べています。

また、いったい<去る>というのは、いつのことなのだ?すでに去ったものは過去にあるわけで、また、いまだ去らないものは、未来に属します。だから、それは去らない。また、<現在去りつつあるもの>が<去る>と言えるかもしれませんが、<現在去りつつあるもの>をつきつめて考えてみますと、過去か未来のどちらかに入ってしまいます。故に、<いま現在去りつつあるものが去る>ということは有り得ないということです。

これはキリスト教父アウグスティヌスの時間論に近い考え方でないかと思います。
アウグスティヌスは『告白』の中で次のように述べられています。
「もし時間が恒常であるならば、それは時間ではないであろう。なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、また、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在も存在しないであろう。過去はもはや存在せず、未来もまだ存在しないのであるから、どのように存在するのか?また現在もつねに、現在であって過去に移り変わっていかなければ、それは時間ではなく、永遠であろう。現在はただ、過去に移り変わることによってのみ時間であるならば、すなわち時間はそれが、存在しなくなるということによってのみ存在するといって間違いないであろう。時間は過ぎ去っているとき知覚され測られているが、しかし過ぎ去ってしまったら存在しないので知覚することができない。過去、現在、未来とは心の中に存在し、心以外にそれを認めないのである。すなわち過去のものは現在の記憶であり、現在のものは現在の直覚であり、未来のものは現在の期待である。私は時間を測ることを知っている。しかし私は未来を測るわけではない。未来はまだ存在しないからである。また現在を測るわけでもない。現在はどんな長さにも広がりを持たないからである。また過去を測るわけでもない。過去は、存在しないからである。それでは何を測るのか?現に過ぎ去っている時間を測るのであって、過ぎ去った時間を測るのではない。」

一つの実体があって、それがいつまでもの続いているものではなく、因縁によってつくられたものです。また、因縁が去れば消えるということ、それが空ということです。つまり、空と縁起は同じ趣意になると思います。

また、空を体得した人は、生命力と力に満たされて、いっさいの生きとし生けるものにたいする慈悲をいだくことになるといわれています。悟りの挑戦 参照
我と汝が相対しています。そこに隔たりがある限り、我と汝の対立はいつまでも続いていくでしょう。しかし、すべてのものは過ぎ去って行くという空の境地に立って、自分の身を相手の立場に置き換えて考えてみますと、そこから本当の意味での愛が成立します。愛とは仏教的には慈悲に相当します。
また、感覚的なものは、すべて過ぎ去っていくものであり本質ではありませんが、人間の魂の核の部分は仏性、神性が宿っています。すべての現象を過ぎ去っていく空としてみながら、仏性を本質として見た時に、自他はこれ別個に非ず一体なりという考えになり、そこに他人も自分も独立した関係ではなく、すべてはつながっているという、慈悲の気持ちがおきてくるのではないかと思います。

また、大乗仏典・大智度論 中央公論社には次のように書かれています。
「例えば、「薬」と呼ばれるものは、それが効く病気との関係の中で薬として存在するのであって、それ自体の本来的な性質において「薬」として存在しているわけではないのであると書かれています。」

風をひいて頭が痛いのに、頭に傷薬をぬっても薬としての効果は期待できません。

「仏の教えの中で、貪欲・瞋恚・愚痴という、人々の心の病を治療することについて語られる場合にも同様なことがいえます。
身体を不浄であると観察すること(不浄観)は、貪欲という病に対しては適当な対症的治療法と呼ぶことができますが、瞋恚という病に対しては適当なものということができず、対症的治療法ではありません。なぜなら、身体のうちに諸々の欠陥があることを観察するというのが不浄観なのであり、
もし、瞋恚という病におかされている人が自分の身体に諸々の欠陥があることを観察したならば、ますます瞋恚の炎が燃え上がることになるからです。
また、慈悲の心を思い起こすことは、瞋恚という病に対しては適当な対症的治療法ということができるけれども、貪欲という病に対して適当なものということはできず、対症的治療法ではありません。
なぜなら、慈悲の心というのは、人々の内にある好ましいことを見つけ出して、その長所を観察することでありますが、もし貪欲の病におかされている人が、他人のうちに好ましいことを見出してその長所を観察するならば、きっとますます貪欲になるからです。
また、物事はすべて原因や条件から成り立っていると観察すること(因縁観)は、愚痴という病に対しては、適当な対症的治療法ということができますが、貪欲や瞋恚といった病に対しては適当なものとはいえず、対症的治療法とはいえません。
なぜなら、まず、はじめに誤った観察(邪観)があり、この誤った観察から誤った考え(邪見)が生じてくるからであります。そして誤った考えというのは愚痴(おろかさ)に他ならないからであります。」

相手に合わせて対機説法ができるということは、相手の立場に立った、慈悲の現れの一つであると考えます。




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posted by ガンちゃん at 23:34 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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