2015年01月06日

霊存在は自分にあった霊的磁場で活動する

霊存在は自分にあった霊的磁場で活動する


波長同通の法則を別の角度から考えてみます。
人間は表面上、どのように取り繕うとも魂の生地がでてきて、その人独自の雰囲気を形成していきます。
霊的直観力が研ぎ澄まされている人であれば、対面した瞬間にその人が、どのような人物であるかを見抜いてしまうかもしれません。

その顔にその人自身の考え、思い続けてきた内容が結果として表現されてきます。
また、顔や雰囲気だけでなく言葉を通してその人の人格を知ることも可能であると思えます。

常に上から目線で話をする人、何を根拠に自分が偉いと思っているのか第三者からでは理解できませんが、発言が命令口調で威張っている人がいたりします。
周りは距離をとり、かかわりたくないので本人には誰も忠告してくれません。
誰からも忠告なり指摘をされませんので、その傲慢さに拍車がかかっていきます。
このような人物に限って、自分が八百万の神々の一人とか、如来とか菩薩とか勘違いをし、人のことをあなたは○○次元の人だと格付けしたりします。

その人が本当に偉大な人かどうなのか、あるいは妄想と現実がごっちゃになって迷走するあわれな求道者なのか見分ける方法があるのでしょうか。

一つは昔から「類は友を呼ぶ」と言われてきましたが、過去の人達の経験則に基づいた名言なので、科学的に実証されていなくても根拠があります。
幸福の科学で言うところの波長同通の法則です。
本人が神を名のっていたとして、その発言及び霊的波動に惹かれてくる人がどのような人物かを観察することで、その人なりがわかります。

一定の期間、その本人にひかれてくる人の発言が、やくざと区別がつかず、罵詈雑言する人であれば、その人に惹かれてきた人は、同じものを持っている、あるいは波長が一致して引きつけ合ったと言えるのではないでしょうか。
そしてその人達は独自の霊的磁場を形成し、その領域の中で活動を開始します。

やはり惹かれあうもの同士には共通する価値観といいますか同じものを内面に内包していると考えていいと思います。

基本的に思いや考える方向性が一緒であれば引きつけ合い、集団になれば霊的磁場を形成し、その霊的磁場に惹かれて同じような考えを持つ人が集まってきます。

幸福の科学ブログ村も強力な霊的磁場を形成し、正しい意見を発信していくことで引きつけられた人が積極的に参加し、自分の意見を発言していけば、更に影響力が増してくるのではないでしょうか。
それはユートピアに一歩前進したことになると思います。


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posted by ガンちゃん at 20:00 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月05日

神秀と慧能の修業の違い あなたはどちらのタイプ

神秀と慧能の修業の違い あなたはどちらのタイプ

大悟の法には、神秀と慧能の修行について書かれていたと思います。
五祖弘忍が『依鉢を譲る』ということで悟りの試験をしました。自分自身の悟りの内容を言葉に書いて出してみなさいということで、内容が五祖弘忍の考えと近ければ次の後継者になるということです。

神秀の書いた偈の内容を要約すると、「身体は大事な菩提樹だし、心は大事な鏡なのだ。だから、心境を磨かなければならない。体も心も、大切に手入れをして、塵や垢や埃がつかないようにしなければならない」大悟の法講義・自力と他力参照
オーソドックスな詩で、地道な努力を要求している内容であると思います。
一方の慧能の偈の内容を要約すると以下の通りです。
「菩提の樹などない、鏡もない、本来は無一物。どこに塵や埃をつけるのだ」という内容です。
これは仏教の『空』の思想に関係していると思えます。

神秀と慧能を比較すると、神秀の方が忍耐と努力を要求する修行内容に対して、慧能は地道な努力、修行に関しては、重要視している感じを、私はあまりうけません。

しかし、人間にとってどちらが正しい修行内容であり、魂の進化にとって大事なことであるかと考えてみますと、自分は神秀の修行論の方こそ王道であると思えてきます。

空の思想は縁起とも関係してくるので、仏教にとって大事な教えであることは間違いありません。ナガールジュナの中論には、空の説明の一つとして次のように書かれています。
「淨に依存しないで不浄は存在しない。それ(不浄)に縁って淨をわれらは説く。ゆえに淨は不可得である。不浄に依存しないで淨は存在しない。それ(淨)によって不浄をわれらは説く。ゆえに不浄は存在しない。」

要約しますと、淨と不浄とがそれぞれ自身の本質(自性)を持つならば、淨は不浄をはなれても存在し、また不浄は淨とは独立に不浄として存在するはずです。しかし、淨も不浄もともに、自然的存在の「ありかた」であるから、独立に存在することは不可能であります。(相互依存している関係)
存在が本質的な普遍性を持つのであれば、他に依存しないで自立的であるということです。


神秀の偈の内容は仏陀の修業論とおなじものであり、仏陀も地道な努力を要求していたはずです。
しかし、人間はどうしても肉体の欲望に引きずられますから(もちろん自分も含む)、この世の存在のはかなさを教え、霊的世界こそ実在の世界であり、人間の本質も霊的存在であるということを教えるために、この世を否定する空の思想が大事であったのだと思います。

空の思想が大事だからといってそれを逆手にとって、人を驚かすような突拍子もない内容を書いて人をひきつけたり、意味不明な内容を書いて人を煙にまいたり、自己の正当化にはしったりすることはあまり良いことではないでしょう。人に対して話をし、文章を書くのであれば、初めも良く、中程も良く、終りも良い内容であれば素晴らしいということです。

しかし仏典には以下のようにも書かれています。
「多く説くからとて、それゆえにかれが賢者なのではない。心おだやかに、怨むことなく、恐れることがない人、かれこそ<賢者>と呼ばれる」



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posted by ガンちゃん at 20:39 | Comment(1) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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