基本的に仏教の修行は自力で、戒・定・慧の三学であると言われています。戒律を守る過程で自分の日常生活のあり方を律していきながら、禅定を通して自分の心を落ち着け、霊天上界との交流をはかり、智慧を得る。戒も定も最終的には智慧を得ることが目的であり、この世的な束縛やとらわれから自由になり解脱をする。真実の自由とは実在界における価値観を体現した自由であり、自分が真実解脱したことを知る解脱知見があると教わっています。
この地上は相対的な世界であり、相互依存で成り立っています。
あるいは、お互いの関係で成り立っており、それ自体に性質を有しているものはありません(無自性)。
また、われわれは感覚器官を通して物質的なものを実体があると考えています。しかし、実体性はしょせん限定されたものにすぎません。これらが未来永劫続いていくものでもありません。ある限られた時間の幅で存在するだけであります。どこまでも限られた意味において実在するのであり、すべての存在には滅びを内包しています。
自己の修行をすすめながら、感覚的なものはすべて実体性を持たないという意味で幻であると認識しながら、その幻の世界観の中で神仏に対しての信仰心を強めていくなかに、奇跡が起きてくるのでしょう。
不滅の法の第2章・霊界と奇跡の中に、「信じない」ということは、物事を常識的に考えて「こういう時には、このようになる」という、この世のルールに屈服していることを意味しています。」この世のルールに屈服していれば、この世で普通に起きること以外は起きませんと書かれています。
初めから奇跡を期待した信仰というのも純粋な信仰心とは言い難いと思われますが、日々正しい修行をしている信者には、奇跡や神秘体験をするようになるのかもしれません。
仏教の根本命題は「上求菩提・下化衆生」であるといわれています。
自分の悟りが高くなるほど救済力が高くなり、影響力も増してくると教わっています。
仏教は自分づくりをしながら同時に、他の人に対しての救済を要求します。
この自己確立という点が最初の段階において大切であると考えています。完璧な自分とまではいかないにしても、自己確立が不十分であるのに霊的現象が身に及んだ場合、悟りのきっかけであると同時に危険性もあると言わざるをえません。
最初は高級霊からの通信であったにもかかわらず、自己確立が不十分なために慢心してしまい、霊の言葉の真意を見抜くことができず、そのうちに肉体を乗っ取られてしまうという可能性もあるかと思えます。
また、教学を軽視し霊的現象のみに比重がおいてしまう人もいますが、そのような人は客観的にみて、真理を正しく理解していないように見受けられます。もちろん自分自身が正しく理解し体得しているというわけではありませんが、そのような未熟な自分がみても教学を軽視し霊的現象を悟りと勘違いしている人の言動は、妄想が混じっているように感じられます。
また、ご本人は高級霊から通信を受けていると勘違いしているので発言が常に人に対しても命令口調です。
本人はもしかしたら指導してやっていると思っているかもしれませんが、はたから見れば全くの迷惑であるということになります。
大事なことは本当に信じきる信仰心と、合理性の両面ではないかと考えます。
『仏陀・悪魔との対話』岩波文庫 には伝道に関して次のようなことが書かれています。
「尊い方!尊師は教え(真理)をお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。かれらは、教えを聞かなければ退歩しますが、[聞けば]真理を悟る者となりましょう」と書かれています。
伝道する対象を選別しています。基本的には全ての人が救いの対象なのでしょうが、優先順位をつけて、合理的に伝道の対象者を絞っています。
伝道に限らず宗教修行は、霊流を引いてくるための信仰心と純粋さという感性的な部分と、物事を合理的に判断し決断する理性的な部分の両方が必要であるのでしょう。
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