2015年01月26日

仏教的修行による自己確立と信仰による奇跡

仏教的修行による自己確立と信仰による奇跡

基本的に仏教の修行は自力で、戒・定・慧の三学であると言われています。戒律を守る過程で自分の日常生活のあり方を律していきながら、禅定を通して自分の心を落ち着け、霊天上界との交流をはかり、智慧を得る。戒も定も最終的には智慧を得ることが目的であり、この世的な束縛やとらわれから自由になり解脱をする。真実の自由とは実在界における価値観を体現した自由であり、自分が真実解脱したことを知る解脱知見があると教わっています。

この地上は相対的な世界であり、相互依存で成り立っています。
あるいは、お互いの関係で成り立っており、それ自体に性質を有しているものはありません(無自性)。

また、われわれは感覚器官を通して物質的なものを実体があると考えています。しかし、実体性はしょせん限定されたものにすぎません。これらが未来永劫続いていくものでもありません。ある限られた時間の幅で存在するだけであります。どこまでも限られた意味において実在するのであり、すべての存在には滅びを内包しています。

自己の修行をすすめながら、感覚的なものはすべて実体性を持たないという意味で幻であると認識しながら、その幻の世界観の中で神仏に対しての信仰心を強めていくなかに、奇跡が起きてくるのでしょう。

不滅の法の第2章・霊界と奇跡の中に、「信じない」ということは、物事を常識的に考えて「こういう時には、このようになる」という、この世のルールに屈服していることを意味しています。」この世のルールに屈服していれば、この世で普通に起きること以外は起きませんと書かれています。

初めから奇跡を期待した信仰というのも純粋な信仰心とは言い難いと思われますが、日々正しい修行をしている信者には、奇跡や神秘体験をするようになるのかもしれません。


仏教の根本命題は「上求菩提・下化衆生」であるといわれています。
自分の悟りが高くなるほど救済力が高くなり、影響力も増してくると教わっています。
仏教は自分づくりをしながら同時に、他の人に対しての救済を要求します。

この自己確立という点が最初の段階において大切であると考えています。完璧な自分とまではいかないにしても、自己確立が不十分であるのに霊的現象が身に及んだ場合、悟りのきっかけであると同時に危険性もあると言わざるをえません。
最初は高級霊からの通信であったにもかかわらず、自己確立が不十分なために慢心してしまい、霊の言葉の真意を見抜くことができず、そのうちに肉体を乗っ取られてしまうという可能性もあるかと思えます。

また、教学を軽視し霊的現象のみに比重がおいてしまう人もいますが、そのような人は客観的にみて、真理を正しく理解していないように見受けられます。もちろん自分自身が正しく理解し体得しているというわけではありませんが、そのような未熟な自分がみても教学を軽視し霊的現象を悟りと勘違いしている人の言動は、妄想が混じっているように感じられます。
また、ご本人は高級霊から通信を受けていると勘違いしているので発言が常に人に対しても命令口調です。
本人はもしかしたら指導してやっていると思っているかもしれませんが、はたから見れば全くの迷惑であるということになります。


大事なことは本当に信じきる信仰心と、合理性の両面ではないかと考えます。
『仏陀・悪魔との対話』岩波文庫 には伝道に関して次のようなことが書かれています。
「尊い方!尊師は教え(真理)をお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。かれらは、教えを聞かなければ退歩しますが、[聞けば]真理を悟る者となりましょう」と書かれています。

伝道する対象を選別しています。基本的には全ての人が救いの対象なのでしょうが、優先順位をつけて、合理的に伝道の対象者を絞っています。
伝道に限らず宗教修行は、霊流を引いてくるための信仰心と純粋さという感性的な部分と、物事を合理的に判断し決断する理性的な部分の両方が必要であるのでしょう。



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posted by ガンちゃん at 11:32 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月25日

観測にかからない高次元世界

観測にかからない高次元世界

図1のようにシリンダーの表面は二次元空間で、「大きい」次元は横軸の直線、「小さい」次元は表面に沿った円です。小さい次元が半径ゼロに収縮するとともにつぶれると、残るは一次元空間の直線のみとなります。同様な考え方が我々の世界にも適用できるかもしれません。
我々の世界も四次元以上の次元をもっているかもしれません。そして、四次元以上の高い次元は直接、我々の観測にかからない「小さい」次元という可能性があります。
しかも目に見えない高次元の力が、現実的な物質世界に影響をあたえている可能性が考えられます。
例えば、電気の配線を遠くから見ると線(1次元)が交差しているようにみえます。
しかし、近づいて観察してみますと、配線は長さ以外に横と高さ(3次元)にも広がりがあるために交差することが可能なわけです。
もし横と高さの方向に広がりがなければ電気の配線は、線をまたいで向こうにいけません。
小さい次元(高次元)が実は私達の世界に大変重要な役割をしているという可能性があります。
2次元.jpg

図1のように、線のすぐ隣に円がついているように、四次元以降の世界は、あまりにも小さいために観測にかかりませんが、実際すぐ隣に存在します。
例えば三次元空間に存在する我々に対して、四次元(縦・横・高さ・時間)空間、つまり時間の方向に移動できる存在がいるとするならば、縦・横・高さの方向以外に広がりを持たない我々の視界からは消えてしまいます。過去か未来の方向に少しでも移動できる存在がいるならば、現在という時間の一点でしか存在が許されない人間の視界からは消えたように見えると考えられます。
過去・現在・未来に広がりを持つ時間が、上記の例で書きましたように広がりを持たない0次元(点)に収縮して観測できないというのが4次元以降であると考えます。

カントは、人間の認識は、感性・直観の試練を経たものでないと客観的認識として確証が持てない。客観的な証明になりえないと述べています。
我々の物自体の一面しか感覚することができません。人間の認識には限界があり、感性・直観は物の本質、理念を捕らえることができません。我々の感性・直観は、物の現象面しか与えられず、物自体は決して人間の認識としてはわかりえない。と述べていると思います。

客観的証明ができないという理由が、「ない」という証明になるというわけでは決してありません。
目に見えない世界を認識していくには、どうすればよいかを考えていくべきであると自分は考えています。3次元の世界の中に4次元以降を知る手掛かりが必ず隠されていると思えます。


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posted by ガンちゃん at 01:39 | Comment(0) | 物理・科学・宇宙論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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