UFOとキリスト教の関係
以前、ベガ星の価値観と天台智の一念三千の思想とからめて、関係性を考察したことがありますが、今回は、キリスト教との関係で考えてみます。
ベガの思想は、仏教的な思想と深い関係があると考えていましたが、医療に関しても深い関係があり、白色系としても、地上に具体的な力として影響していると考えています。
以前は自分自身もイエス様の復活は、霊的な復活であり肉体的に生き返ったのではないと思っていました。それは他の本でも霊的なものが、写真などにとられていたりしているので、霊的に物質化して弟子や、人々の前に現れて、それが目撃され確認されていたのだと思っていました。
例えば「これが心霊の世界だ」M・バーバネル著には、写真付きで交霊会にベルギー国王レオポルド三世の王妃で交通事故によって亡くなったアストリッド王妃が出現したり、エクトプラズムが物質化現象していく過程でインディアンの少女、シルバーベルが出現したり、それ以外にも数多く、写真に撮られているので、イエス様であれば霊的に復活したとしても不思議ではないと、単純に考えていました。
しかし、よく考えてみるとイエス様の場合は、写真に瞬間的に写るのとは違って、あまりにも、いろんな場所に現れているし、具体的に弟子と会話をしているので、ベガ星人の科学技術によって復活したのかなと、今は思っています。
ヨハネによる福音書を読んでみると、このように書かれています。マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使いが、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った。「だれかが、私の主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っていられるのを見た。と書かれています。
この記述の中で気になるのが、白い衣を着た二人の御使いというところでありますが、これが黄金の法の映画に登場した、未来のタイムマシンで来た人達なのか、ベガ星人なのか、まったくの第三者なのかわかりませんが、すくなくとも「女よ、なぜ泣いているのか」とイエス様の復活を当然のこととして、平然と言ってのけているように感じますので、イエス様の復活現象と何か深い関係がある人物であると思います。
しかし、復活という点だけ考えればラザロの復活はどのように考えればよいのでしょうか。
聖書の記述はこのように書かれています。
ラザロの姉妹マルタが言った。「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」イエスは彼女に言われた「もし信じるなら神の栄光をみるであろうと、あなたに言ったではないか」イエスは目を天にむけて言われた。「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことに感謝します。〜大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた。「彼をほどいていやって、帰らせなさい」と書かれています。
しかし、これはベガ星人の科学技術による復活現象と考えるより、イエス様の信仰による奇跡的な現象であると思います。
「父よ」と天に向かって言われています。イエス様が天にむかって「父よ」といわれる方は、主・エルカンターレであるからです。
更にベガ星人とキリスト教の奇跡の関係を考えてみたいと思います。
前章では、復活を中心としてイエス様との関係を考察してみましたが、十字架にかかった後に復活して、天に昇ったイエス様についてベガ星人との関係で考えてみます。
マルコによる福音書の第16章には、「主イエスは彼らに語り終わってから、天にあげられ、神の右にすわられた」と書かれています。
また、ルカによる福音書の第24章にも、「祝福しておられるうちに、彼らを離れて、「天にあげられた」と書かれています。
更に、使徒行伝の第1章には、「イエスは彼らがみている前で天にあげられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスのあがっていかれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った。[ガラリヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天にあげられたこのイエスは、天にあがって行かれるのを、あなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう]」。
ここでマルコ福音書とルカ福音書、使徒行伝に共通して書かれているのは、イエス様が天にあげられたと、書かれていることである。天にあがって行ったではなく、「天にあげられた」ということである。
あげられたということは、自分以外の第三者の力によるという意味にもとれます。
以前、総裁先生はアラーの神が自分を名のる時、「我は」という場合と「我々」という複数形で名のる場合があり、イスラム教徒の人達は、あまり深い意味としてとらえていなかったようですが、実は何人かの神の存在があったということです。と言われていたと記憶しています。
これから考えると、天にあげられたとは、無理矢理にこじつければ、ベガ星の円盤から発射された牽引ビームによるとも、考えられると思います。
特に、使徒行伝には、「天にあげられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。」と書かれている。
物質は、その性質・機能に合わせた固有の振動数を持っており、その波動を4次元振動にきりかえることができれば、物質は4次元的存在に変化すると、自分は考えています。
円盤は3次元振動から4次元的振動に変化することで、物質的には存在を消した状態にすることができる一方、雲を利用して姿を隠す場合があると思われます。
円盤はよく、雲を利用して姿を隠そうとしているのをテレビか何かで見たことがあると記憶しています。
天にあげられ、雲に迎えられてという記述は、雲に隠れた円盤が牽引ビームによって、復活したイエス様を引きあげたと理解することも可能かと思います。
キリスト教の絵画には、キリスト教における重大な場面で、タイムマシンかUFOなのか、飛行物体がよく描かれています。
以下、参考文献
コソボ デチャーニー修道院 フレスコ画 14世紀 はりつけのキリストの両側にカプセル型の飛行物体に乗った人が描かれています。
一般的に考えても、はりつけのキリストの絵と飛行物体の絵は、全く関係性がないと思いますが、絵を描くのに、わざわざ飛行物体を書き加えるということは、絵の芸術性を損なうことになると思うので、何か意味があるのであろうと思います。
それにしても、飛行物体の形状が黄金の法の映画に描かれていた、タイムマシンにそっくりだと感じます。
結論的にベガ星人は、世界の三大宗教の中の二大宗教にあたる、「仏教」「キリスト教」と深い関係にあると同時に、歴史の流れの中で奇跡的な部分に影響を与えてきたのかもしれません。
最後に、キリスト教にも仏教にも共通する概念を、ヘーゲルの言葉を借りて終わりたいと思います。
愛の概念:愛とは総じて、私と他者とが一体であるという意識のことである。法の哲学より
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