2014年11月27日

客観的証明に対する宗教の挑戦

客観的証明に対する宗教の挑戦

現代は哲学にしても科学にしても、客観的な証明を必要とします。
客観的ということは、自分の主観を排除して、誰が観測しても同じである。あるいは、すべての人が学びの対象として学べることが可能であり、その内容に普遍性があるということを言うのでしょう。

しかし、私が思うのには、本当の意味での客観性はないのではないかと思えるのです。
ある対象を視覚的にとらえたとしても同じように認識しているとは限りません。
視覚を通して得られる知覚内容が違えば、はたして同じものを見ていると言えるのでしょうか。
目の悪い人が眼鏡やコンタクトレンズを取り外すと、とたんに外界がよく見えなくなりぼやけて見えます。ということは、眼鏡やコンタクトレンズの機能に依存した見え方でしかないといえます。

宗教の霊的なものに関してはどのような位置付けがなされるのでしょうか。
単に、客観的ということが正しいという証明にはならないと思えます。
宗教に関して霊的な秘儀の部分で、どうしても隠されている部分もありますから、証明出来るかどうかという価値基準からは外れてしまいます。

善悪の価値判断という観点から客観性というものを考えた時に、必ずしも正しい証明にはなりえないと考えます。
霊的存在は実在であり霊天上界は存在します。しかし、誰もがわかるように客観的に証明出来るかといえばできません。
それは4次元以降を測る物差しが3次元に存在しないからです。3次元的材料ではそれより高い次元の世界を証明できません。
しかしこの場合、証明できないことがイコール存在しないということにはなりません。
バリバリの唯物論者以外の普通の人間で、愛や希望、勇気を信じない人がいるでしょうか。
私はいないと思います。やはり、人から優しくされるとうれしいですし、希望を持つことで人間は奮い立つでしょう。
しかし、愛や希望、勇気という高次の人間精神は物質的道具で証明することはできません。しかし、すべての人が心の奥底でそれを信じています。

宗教の挑戦とは、人間の心の深いところにある精神、あるいは神仏と同じ性質を有しているところの仏性を顕現させるためのきっかけを与えることだと思えます。

客観的かどうかということが、正しさの証明になるのではなく、神仏の価値基準から判断して正しいかどうかということの方が重要であるということです。

宗教とは、目にみることのできない神仏の存在と愛や慈悲について人々に教えることでしょう。
ですから、正しい宗教を学ぶ人達は自分を含めて、優しくあると同時に強くなくてはいけないかもしれません。

客観性とは確かに大事なことですが、考え方の根底に唯物論がある客観的証明では神仏の御心から遠ざかることになります。

真実の宗教は唯物論的客観性に対して挑戦し勝たなくてはいけません。


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posted by ガンちゃん at 03:23 | Comment(1) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月24日

主をおそれる 弟子としての立場をわきまえる

主をおそれる 弟子としての立場をわきまえる

主を信仰する、仏・法・僧に帰依することは幸福の科学の信者としてあり続けるための条件でしょう。
しかし、私は主の教えを知れば知るほど、主の存在が怖くなることがあります。
もう人間ではない(もちろん人間という領域を超えていますが)と思うとおそれを感じることがあります。
時間や空間の本質について例え話でわかりやすく説明されていますが、これを知ることは大変なことです。私達は教えを理論的に理解しようとしますが、それを実際の経験でつかみ取っている、認識しているということはどういうことでしょうか。時間や空間の本質から仏教的な教えである三法印が説かれているのかもしれません。諸行無常・諸法無我・涅槃寂静は宗教的な無常観のように感じますが、物理的法則を基礎として説かれているのだと自分は考えています。

霊界についても地球を磁場として物質世界である3次元から9次元あるいは10次元まで展開されていると教わっています。それぞれの次元に入るための条件を明確に述べられています。
地上においてどのような心境でどれだけ多くの人に影響を与えたか、それをどのくらいの時間(転生)継続して続けることでどれだけ魂的に進化していくのか説明されていますが、これだけ明確に法としてお説きくださるということは、地球的磁場を基礎として主ご自身が各次元構造を創造されたのかなと思えます。
すでに神という領域をも超えた存在であると思います。

更に、地球的霊界以外にも主の目には違った形で地球がうつっているかもしれません。もし宇宙が波動的な法則によって成り立っているならば、私達が認識している地球以外にも、同じ場所(位置)に別の地球も存在している可能性があります。
よく並行宇宙といわれていますが、宇宙が波動的法則に支配されているならば私達の認識している地球以外にも「Aとして存在する地球」「Bとして存在する地球」「Cとして存在する地球」が共存しながらもお互いに干渉(影響)しないで同時進行している可能性があります。

地球は霊的磁場以外にも霊界とは違う別の地球が共存し、それぞれの違った文明を築きながら、お互いに影響されないで独立しながら同時進行している可能性もあるかもしれません。

そうしますと主は、地上のおける人間の生き方や文明だけをみているのではなく、霊界についての価値秩序を決めているだけではなく、並行して存在する地球の文明実験を観察しながら、私達が認識している地球の文明と比較しつつ、進むべき方向性を決めていこうとしているかもしれません。
また、他の星の文明を観察しながら地球にあった文明を参考にして取り込もうとしているかもしれません。

私達が考えている以上に、主・エルカンターレといわれる御存在は遥かなる存在であると思っています。
それを思うと信仰心とは別におそれを感じます。
結論は、主と弟子では言葉で表現できないほどの開きがあり、お釈迦様の手のひらで騒いでいる孫悟空どころの話ではないということです。

やはり弟子は弟子としての分をわきまえることが必要であり、自分自身を含めて謙虚に努力精進していく姿勢が大切であると思います。



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posted by ガンちゃん at 14:15 | Comment(9) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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