幸福の科学の会員でいることの条件が正しき心の探究です。
出発点はここです。ソクラテスは「汝自身を知れ」といわれましたが、自分自身の真実の姿を知るということが一番難しいかもしれません。
生涯を通して正しい心の探究をしていく過程で、かならず魔境がおとずれるだろうと思います。
過去の経験から一番の魔境と思える出来事は、霊的現象が自分の身の上におきた時だと思います。
教学を重視しないで霊現象のほうに関心があり、比重があまりにもそちらにありますと、起きた霊現象に対しての善悪の判断ができずに翻弄され、のめり込んでしまう人が現実にいました。
四正道の一番初めは、愛の原理です。しかし自分に霊現象がおきますと欲望や名誉心が刺激され他人に対しての優しい気持ちがおきてこないのではないでしょうか。(霊現象を否定しているわけではありません。)
もし、霊的現象が天上界からのものであるならば、人に対しての優しい気持ち、愛する気持ちが強くなるのではないかと思います。
逆に、霊的な現象によって慢心し人を見下すようになり、自分は特別に偉い存在だと思いこみ、人に対しても常に上から目線で、自分が教えてやると勝手に思い込んでいるような人もいます。
仮に最初は高級霊から通信なりインスピレーションが降りてきたとしても、自分の心の隙や慢心などがあると、途中で悪霊・悪魔と入れかわってしまい、そのことに気がつかず、操り人形にされてしまうでしょう。
第三者からみると、あきらかに慢心している人はわかります。自分が神や如来と本気で思っているような人もいますが、その人が語る言葉を聞けば、いいかげんに目をさましなさいと言いたくなります。
もちろん私自身も慎重に謙虚に精進していかなければいけないし、修行中であるがゆえに、あまり人の批判をしたくはありませんが、経験上、言うべきことは言わないといけないという考え方にかわりましたし、言わないということは愛と勇気がないことであると考えるようになりました。
黄金の法には歴史上の偉大な人物が紹介されていますが、如来といわれる高級霊の生前の実績と思想を学べば、冗談でも自分は如来であると言えないはずです。
魂の中心部分には心というものがあります。これが本当の意味において自分自身であります。
それゆえに人間の本質とは何かという問いに対して、人間とは心で「思う」ことそのものであるということが言えると思います。
マルクス・アウレリウスやエマーソン、ジェームズ・アレンその他、偉人達は「考えていることがら、それがその人なのだ」ということを述べていたと思います。
正しき心の探究とは、本当の自分を深く掘り下げる作業であるかもしれません。
霊現象とはその人が聖人になるか廃人になるか、諸刃の剣といえるかもしれません。
知の原理においては、真実の霊的世界観を獲得することで、地上においての魂修行が格段に進化すると思います。霊言においてもその内容が真理に照らして正しいかどうかという判断ができるようになると思えるし、嘘を見抜く力にもなると考えます。
悪魔でさえ聖書や仏典を引用すると思うし、人に優しくしなさいということぐらい平気で言ってのけるでしょう。
やはり、常に原点に帰る、初心を忘れないということが、自分を含めて大切であると思います。
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