厳然たる事実として、霊界には表側と裏側と下側があるといわれています。
裏側といわれる人達の特徴とはどのようなものなのでしょうか。
光の天使達は地上の人々を導くとき、教えを説いてその人の魂の傾向性を善なる方向にかえていくような導き方をすると思います。
魂自身の傾向性を変えない限り、また同じ状況で同じような間違いをおこすことがありますので、傾向性を変えない限り、何回転生しても同じことの繰り返しになり、魂の成長が遅れるのではないかと考えられます。
裏といわれる仙人、天狗系統の人達は一体どういう傾向性があるのでしょうか。
宗教的裏仙人の特徴として、上記で書いた光の天使達の教えによって人々の魂を根底から善なる方向に変化させようとする地道な努力に対して、霊現象を見せて手っ取り早く結果を手にしたいという気持ちが強いのではないでしょうか。
いちいち教学を学んで、愛の気持ちを育みながら、相手に対して優しく接していくという考えにはいかず、霊現象でもって人を従わせる、あるいは霊現象で人を信じさせるという方向にいく人達であると思われます。
あるいは、法の内容よりも、霊現象が起きたら信じる、霊言ができたらその内容など関係なく、信じてしまう。とにかく超能力的なことに関しては異常な関心があり、どこへでも飛んで行きますが、地道な努力精進はしないという傾向があるように感じます。
過去の歴史を振り返ってみますとキリスト教や仏教のような世界宗教のなかにうまく入りこみ、教えをうまく利用して乗っ取ろうとします。
すぐに割り込んできて自己主張しますので、なんとなくそちらの方向にもっていかれてしまうのですが、自我自賛、自己中心的で、人の意見など全く受けつけようとしません。
そして自分は八百万の神々のひとりであるとか、如来とか光の天使であるとか自己主張しますが、言っている内容はどうかといえば、非常にレベルの低いといいますか、教えの中身がないことばかり発言するわけです。
ただ、自我が強く自己中心的なので、自分は神だと本人は本当に思って発言しているかもしれませんが、まともに法を学び、努力している人がみれば嘘だということがすぐわかったりします。
物事にはかならず両面があります。一枚のコインに表と裏があり、男と女、山と谷、右と左、ブラスとマイナスといった具合に。これは一つの波が山と谷の対で出来ているように三次元という物質世界は、二律背反した構造になっているようです。
霊的世界をまったく信じようとせず確信犯的に無視し唯物論を広めようとする勢力も困りますが、だからといって、裏仙人的な霊的世界観を真実のように語る人も、また極端な人であると思えます。
私たちが生存している地上世界は、常に二律背反する世界ですし、常に矛盾、対立をくりかしています。
この対立矛盾による混乱につけこんで、自己主張し出すのが仙人ではないかなと思います。
ヘーゲルがいう弁証法という考え方や仏教でいうところの中道的観点が大切であり、真実であると考えます。偏った霊能信仰も間違えですし、かといってガチガチの唯物論も間違えです。
この両極端を否定した中道にこそ、私達が進むべき正しい道であると考えます。
ナガールジュナは八不中道の考え方で、「有」という立場、この世の常識的立場や考え方と、「空」というこの世は仮の世であり、時間の流れの中で変転変化しながら過ぎ去っていくものであり、霊的なものこそ真実であるという考え方の両方を否定した中道にこそ、真実の正しい生き方があるといわれていました。
また、天台大師の三諦円融の考え方では、第一段階で空諦と説きました。
この世は仮の世であり実態のあるものではない。固定的で変転変化しないものはない、すべては原因や条件に依存しているので空であると考えました。
しかし、空諦にかたよると、この地上での生き方がおろそかにされるかもしれないということで、次に来るのが仮諦、この地上世界は仮ではありますが、この地上は魂の修行の場であり、仮と言って単純に否定することですむものではありません。
そこで中諦、すべては夢幻としてとらわれることなかれという空諦にも、実存主義的な考え方を肯定する仮体にもかたよらず、その中なる道にこそ真実の人間としての生き方があるとする三諦円融が仏陀の説いた教えであるとしました。
地上的価値観に振りまわされるのでもなく、また、霊的現象にも振りまわされるのではなく、常に淡々と生きていければいいなと思えます。
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