2014年10月30日

ヘレン・ケラーの人柄とサリバン女史

ヘレン・ケラーの人柄とサリバン女史

ヘレン・ケラーとはどのような人柄なのかと思い、本を読み返してみました。

ヘレンご自身は、自分の考えや思いを相手に伝えることができないということに、大変苦労されたのではないかと感じます。
ヘレンがまだ小さい時のことを、サリバン先生が次のように書いています。
「ヘレンはまだ子供の頃、遊びふざけるのが好きで、他の子供と仲間になるととても喜びます。遊び仲間の子供たちに自分の思うことが通じなくとも、いらいらしたりしません。彼女の書く言葉を1字も理解できない子供たちとも、何時間でも一緒に遊びます。彼女が一所懸命に身ぶり手ぶりで意思や感情を表しているのを見るとかわいそうになります。ときどき男の子や女の子の中に、指文字を習おうとする子がありますが、そんな時ヘレンが忍耐強く、親切に、幼い友人たちのぎこちない指を正しく動くようにしようと努力している姿は美しいものです。」

サリバン先生は、自分の意思を必死に伝えようと忍耐強く努力しているヘレンを、限りない優しい眼差しで見ていたのだと伺えます。
おそらく、仏も私達一人一人が厳しい環境のなかで、努力精進している姿を、限りない優しい眼差しで見ておられると思います。


ヘレン・ケラーは成長し、育っていく過程で、「なぜ」「なに」という言葉を連発していたようです。サリバン先生も「乏しい知識で太刀打ちしなければなりませんので、たじたじの有様です」。と書かれていましたが、ヘレン・ケラーは、知恵がつくにつれて、際限なく周りに質問をして回ったとのことです。
サリバン先生も述べていますが「なぜ」と思うことこそ、物事の原因に興味を持ちだしたことの現れです。「なぜ」という問いこそ子供が推論と考察の世界に入る入口です。サリバン先生も、そのように言われています。


ヘレンの優しさがわかるエピソードがあります。ある日、ヘレンがご自慢の上着を着た時、お母さんが、「上着もなくて、寒くて困っている、かわいそうな女の子がいます。おまえはその子に自分の上着を上げますか」と問われますと、ヘレンは、その上着をすぐに脱ごうとしながら、「かわいそうな子にこれを上げなければいけないわ」と言いました。また、彼女は自分より小さな子供が大好きで、赤ん坊を見ると、いつでも生まれつきの母性本能を発揮して、いちばん気がつく看護婦さんもかなわないほど優しく子守をします。また、幼い子供達に対する彼女の思いやりと、その子供たちのわがままを黙って聞いてやる優しさも、見ていて実に好ましいものです。とサリバン先生は述べています。

また、ヘレン・ケラーは気が強く負けず嫌いのところがある女の子であったようです。
大人たち何人かで、関税に関しての話をしていたので、ヘレンはサリバン先生に説明してくれと頼みました。サリバン先生は「いや、あなたにはまだ、わからないことよ」と言いました。彼女はしばらく黙っていましたが、力を込めてこう問いました。
「どうして、私にわかないことがわかるのですか。私はちゃんとした心を持っています。ギリシャの親は子供にとても気をつけて、賢い言葉を聞かせていたではありませんか。子供達も少しはわかったとおもいます」。
その当時すでにギリシャの歴史やギリシャ人について、勉強していたのかと思いますが、ヘレンはかなりの読書好きでありました。

あまり知られていませんが、ヘレンは幽体離脱という霊的体験をしています。
ヘレン・ケラーは12歳の時、魂は空間的・時間的な制約を受けずにアテネへと飛翔した神秘体験をしています。


余談ですが、彼女はなんでそんなに本が好きなのかと聞かれて、彼女は答えました。「私の見ることができない、面白いことをたくさん教えてくれるし、人間のように疲れたり、嫌がったりしないから。本は私の知りたいことを何度でも繰り返し、教えてくれる。」

また、「私はどこから来たの」と「私が死んだら、どこへ行くの」ということを、ヘレンは8歳の時に問うていたそうです。スゴ・・・・・・

彼女(ヘレン・ケラー)のノートには次のようなことが書かれていたそうです。
「わたしのわからないことは次の通りです。地球や海やその他のものを作ったのは誰ですか。おかあさんのところに来る前、わたしはどこにいたのですか。植物が土の種から生えるのは知っていますが、人間はそうではありません。子供が生えるのを見たことがありません。小鳥やひなは卵から出てきます。それは見たことがあります。では卵の前は何ですか。地球は、すごく大きくて、重いのにどうして落ちてこないのですか。マザー・ネイチャーのすることを教えてください。聖書という本を読んでいいですか。先生の暇な時に、わたしにいろんなことを教えてください。」

知的好奇心が旺盛な少女だったのでしょう。

サリバン先生は、意識的に聖書を読ませないようにしていたようです。それは、今聖書を読ませれば、神の特質について非常に誤った観念を得るにきまっているからですと述べています。
たしかに、聖書には旧約聖書(旧約はユダヤ教)に関しては、ちょっと理解しがたい内容が書かれているので、ある程度、自分で善悪の価値判断がわかるようになってから読んだ方がいい場合もあるかもしれません。

サリバン先生がヘレンにイエス様のりっぱな生涯と、むごたらしい死について、優しい言葉で聞かせてあげた時、ヘレンは、ひどく感じていたようです。

彼女がその話をもう一度持ちだしてきたのは「なぜイエスは、敵に見つからないように逃げなかったの」という質問をするためでした。彼女は、イエスの奇跡を奇妙に感じ、イエスが弟子たちに逢うために、海の上を歩いて渡ったと聞くと、断然「それは歩いたのではなく、泳いだのです」と言いました。また、イエスが死者をよみがえらせたという話を聞くと、合点がいかないという顔つきで、「命が死んだ人の体に戻ってくるなんて知らなかった!」と叫んでいたそうです。


また、別の時彼女(ヘレン)は、サリバン先生に「魂とはなんですか?」と問うています。

サリバン先生は、「魂がどんなものか誰にもわかりません。しかし、それは身体ではなくて、人間がそれで考えたり、愛したり、望んだりするもので、クリスチャンは身体が死んでも、それは死なない」とヘレンに説明しています。そしてサリバン先生がヘレンに「あなたは、魂と身体は別のものだと考えられますか?」と尋ねました。
ヘレンは「ええ、考えられます」と答えて、こう説明しました。
「さっき、わたしは、アナグノス先生のことを一生懸命考えていたの。その時、私の心、いや魂はアセンズ(アラバマ州の地名、アナグノス氏がそこに行っていたと思われます。)に行っていたけど、私の身体は、この勉強室にいましたから」と答えています。

また、サリバン先生は、魂は見えないもので、形はないと言って聞かせると、「でも私が魂の考えることを書けば、それは目に見えますね。だから言葉が魂の身体でしょう」と答えています。


また別の時にサリバン先生がヘレンに、「もし死というものがなかったら、どんなに楽しいと思いませんか」と尋ねました。
ヘレンは、「いいえ、死というものがなかったらたちまち、生物でいっぱいになって、誰も気持ち良く生きていくことができなくなるでしょうから。」と答え、「でも神様は、この世界をお作りになったと同じようにして、他にも世界(霊界)をお作りになるでしょう」ときりかえしています。

また、こんなエピソードがあります。ある知人が、ハンガリー人は生まれながらに音楽家だという話をしますと、ヘレンはびっくりして「ハンガリー人は生まれた時から歌を歌うの」と聞き返しました。そして、その人が続けて、ブタペストで自分の逢った生徒たちの中には、百曲以上の歌曲を頭に入れているものがあったと言うと、ヘレンは噴き出して「きっと、頭の中がやかましくて、たまらないでしょうね」と答えました。純粋で個人的には好きです。

サリバン先生は、ヘレンは自己流に字義通り解釈して面白がることが多いと言っています。

サリバン先生との会話のなかで、ヘレン・ケラーの菩提心を知ることができます。


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2014年10月28日

ネパールの知り合いに宗教について質問する

ネパールの知り合いに宗教について質問する

知り合いの中国の女性の方が食事をするときに、牛の肉が入っていないことを確認して、食事をしているのを何回か見かけています。
宗教の関係だなと思って見ていましたが、どうして肉を食べないのかあえて質問しないで見ていました。

同じようにネパールの人で豚肉を食べないので、どうしたか質問してみました。その人は豚肉と牛肉は食べないが鶏肉だけは食べていいと言っていました。

そのネパールの方は、牛は神様なので食べてはいけないといいます。

私は、どうして牛が神様になるのですかと、やんわりと質問します。

するとそのネパールの人は、自分達が赤ん坊の時、母親からミルクをもらいそれを飲んで育ってきた。
その母親がくれるミルクは牛から出る。
自分が大きくなれたのは、牛からでるミルクのおかげだといっていました。

母親からミルクをもらって大きくなれた自分。そのミルクは牛から出ている、だから牛は神様なのだと説明してくれました。

仏教は肉食について「見・聞・疑」に引っかかる肉は、食べていけないといわれています。
「見」とは、目の前で豚でも牛でも殺された姿を見た肉は食べていけない。
「聞」とは、そのように聞いた肉は、食べてはいけない。
「疑」とは、そのような疑いがある肉は、食べてはいけない。

ネパールの人に本来の仏教に関しての肉食は、「見・聞・疑」に引っかかった肉を食べていけないといわれているので、決して豚や牛の肉を食べていけないと言っているわけではありません。
生き物という点に関しては鳥も同じです、とは言えませんでしたが、すでに日常生活に根付いていますので、余計なことを言う必要はないと思いました。

宗教は教義といいますか法理論を学び、広げていくのが王道であると思いますが、生活に密着した戒律も、後世に伝えていくため必要なことだと思った次第です。





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