縁起の理法と一念三千論・法華経との関係
仏教の中核の教えとして縁起の理法があります。
すべてのものには、原因があり、その原因に他の条件が加わり、一つの結果が生じてきます。その結果に対し報い(因・縁・果・報)をうけることになります。自己責任の原則として理解してもよいかもしれません。
その結果が、次の原因となり条件が加わってという流れで、循環しながらすべてが成り立っていきます。
縁起の理法に基づいて、正しく真理を学び反省し、実践することで、菩薩や仏になっていくことが可能になると仏教では教えているのだと考えます。
仏陀の縁起の理法を、天台智は一念三千論というかたちで教えを説かれたのでしょう。
一念三千とは、十界、百界千如、三千種世間など、心のあり方によって天国的にも地獄的にもなるということだと思います。
一念三千論は以下のように説明されています。
法華経を勉強するにあたって大切な考え方として十如是があります。
十如是とは、「如是相」・「如是性」・「如是体」・「如是力」・「如是作」・「如是因」・「如是縁」・「如是果」・「如是報」・「如是本末究竟等」の十個がありまして、この世のあらゆるものはこの十種類をみれば違いが分かるといわれています。
如是相とは、外に現れる様相、外見であります。優しそうだとか怖い感じがするだとかそのような外見です。
如是性とは、その人に備わった性質、性格であります。勤勉であるとか努力家であるとか、その人の性格を表しています。
如是体とは、どんな体、体つきでしょうか。スポーツ向きの体型なのか、やせ型か、標準タイプか肥満型なのか、体型等の違いです。
如是力とは、潜在能力で、どのような潜在的な力を持っているのでしょうか。
如是作とは、それが外に対して現れる作用、どんな作用を表していますか。
如是因とは、ものの生起を導く直接原因で、その人はどのような原因行為をしていますか。
如是縁とは、その原因行為を補助するための条件。
如是果とは、原因と条件によって導かれた結果。
如是報とは、その結果に対しての報い。
如是本末究竟等とは、如是相から如是報までを見ながら全体的にどうですか、すべてが関係しあっています。
この十種類を観察することで、あなたはこのような人です。あるいは他の人とのちがいがわかるという考えです。
さらに、十界互具説という教えがあり、人間が地上に生まれてくる前にいた霊的世界があります。
「地獄」・「餓鬼」・「畜生」・「阿修羅」・「人間」・「天上」・「声聞」・「縁覚」・「菩薩」・「仏」の十個の世界に分類します。
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六道が欲界の世界であり、欲望から十分に逃れていない人間が転生する世界という考えです。
感情のままに怒りまくれば「地獄」に通じます。また、ある物に対して強い執着を持てば「餓鬼」に通じます。人間の尊厳を忘れ、肉体に基づく欲望のままに生きれば「畜生」の世界に入り、闘争と破壊に生きれば「阿修羅」になります。「人間」とは一般的な平均的人間で、「天上」はちょっとすぐれた人間を現わしていると考えます。「声聞」は仏陀の説法を聞いて勉強している人で「縁覚」は独りで修行を続けているような人です。「菩薩」は人助けや人を救うことに邁進しているような人です。
そして、菩薩の五十二段界を超えたら「仏」になれます。
このどこかの世界に、自分自身の魂の出自があるという考えですが、この十種類の心の在り方は、地上に生まれてきた人間も十種類の思いを出すことができます。
菩薩の心であったとしても、何かのきっかけで怒りがこみあげてくれば、やはり心境は地獄に通じてしまいます。また、菩薩の行為をするといっても、菩薩が菩薩の行為をするのと、仏が菩薩の行為をするのと、地獄から抜け出してやっと霊界に帰ることができた人が瞬間的に菩薩の行為をするのでは、やはり違いがあると思われます。
現在の表面的な思いだけで判断するのではなく、裏側も含め両面から確認していく考え方です。
もともとあの世の素性が十種類あり、この地上に出てからの心境に十種類。十種類の人がそれぞれに十種類の心の出し方ができるので十界掛ける十界で百界となります。
この百種類の心境に十如是の思想を掛け合わせると、百界掛ける十如是で千になり、これを「百界千如」といいます。
さらに人間が百種類の心をだす、活動の場として、三種類の世界「三種世間」があります。
一番目は「衆生世間」で人間の世界です。老若男女の違いでも、物事のとらえ方、考え方が違うであろうし、20代と40代でも認識の仕方が違うと思います。学生と社会人でも、同じ人間社会にいながら考え方はずいぶん違うと考えます。
二番目は「五陰世間」です。人間を作っている要素を五陰といって「色」・「受」・「想」・「行」・「識」です。「色」は肉体で、「受」は感受作用、「想」は想い、イメージ。「行」は行為をするための意思であり、「識」は認識力の識です。
このどの部分を使うかによって対象に対しての知覚が違ってくると考えます。仏陀と一般の弟子では同じ対象を観察してみても、認識力が天と地ほどにあるので全く違うとらえ方をしていると思います。
三番目は「国土世間」です。共産主義の国と自由の国、独裁政権の国ではやはり物事の考え方が違うであろうし、日本やアメリカ、フランスの違いによっても物事のとらえ方や考え方が全然違うと思いますし、文化や教育も違ったものであると思います。それゆえに物事に対しての認識の仕方も違ってきます。
「百界千如」に「三種世間」を掛けると「三千種世間」となり三千という数字が出てきます。
天台智は、このようなプロセスで一念三千論という思想を説かれたと自分は考えています。
心の針をどの方向に向けるか(原因)、どのように努力精進(条件)するかによって、結果がちがってくるでしょう。
このように心の法則を理解して、縁起の理法に基づいた正しい修行を実践することですべての人が仏になれることができるという教えを、日蓮聖人は法華経のなかから見抜いたと、『仏教論シリーズ』日蓮を語るに書かれていました。
法華経 岩波文庫を見直していますが、法華経のどこの箇所から日蓮聖人は、一念三千論を見いだしたのか調査中です。
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