内村鑑三氏は、「山上の垂訓は群衆に対する説教にあらず、弟子に対する訓戒なり。その心してこれを読まざれば、よくその真義を解する難し」と書いています。内村鑑三聖書注解全集より
聖書もその時代背景や状況を、当時と同じ視点にたって洞察しなければ、誤った解釈をする可能性があります。
「右の頬を打つような者には左の頬もむけなさい」この言葉をどのように理解すればよいのでしょうか。
内村鑑三氏は以下のように解釈しています。
「これは一般道徳ではない。信者道徳である。現世の道徳ではない。天国の道徳である。信者の国なる天国においてのみおこなわれる道徳である。
山上の垂訓を、イエスの宣べたまえし人類の一般道徳とみて、その不可能事たるは何びとが見ても明らかなり。」
かなり合理的な解釈をされているように感じられます。
仏教で例えるならば、修行者の反省として八正道があります。八正道の前提条件が正しい信仰、仏陀に対しての信仰があって初めて正しい見解ができるようになります。
それから自分の先入観にとらわれずに白紙の状態で観察する、あるいは、縁起の理法に基づいて現在の自分の苦しみの原因を論理的に分解していく、未来に対して、自分の今の心のあり方や行動は、どのような結果が生じ、どのような報いが現れるのだろうかなど、正見一つをとってみてもかなりの論理的な思考力が必要であり、プロとしての修行課題だと思います。
やはり八正道の実践などは、一般の人達にとってはかなりハードルが高い修行だと思います。
内村鑑三氏は、このように山上の垂訓、「右の頬を打つような者には左の頬もむけなさい」といった教えは、プロの教えであり、すべての人が守るべき教えではないと解釈したのでしょう。
「右の頬を打つような者には左の頬もむけなさい」の意味を解釈する前にイエス様の3年間の生涯を振り返ることでヒントがつかめるかもしれません。
イエス様は、荒野で悪魔と対決しています。最後は『サタンよ、退け』と一喝して、悪魔を撃退しています。これ以外にも聖書を読み返してみますと、悪霊に憑依された群衆から悪霊を追い払っている記述がいくつかあります。
これをみると、キリスト教の本質は、悪霊に対して徹底的に戦う姿勢が伺える力強い宗教であると自分は思います。
哲学者(ニーチェ)や霊人のなかにはキリスト教は、最後に十字架にかかったイエス様を表面的にとらえて、弱い宗教と思われています。
しかし、上記で書きましたように、当時の社会情勢や悪霊との対決をみるとイエス様自身は愛の人であると同時に戦う人であると自分は思います。
また、ヨハネの福音書には、「牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわりこんでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には『これらのものを持って、ここから出て行け。私の父の家を商売の家とするな』と言われた。
と書かれています。私ごときにイエス様のお考えがわかるはずがありませんが、あえてこれらの出来事から「右の頬を打つような者には左の頬もむけなさい」という意味を解釈しますと、悪や誤てる行為にたいして徹底的に戦う姿勢が大事であると思います。宗教の使命は悪を押しとどめ、善をおし進めることですから、自己防衛を禁止しているのではなく、恨み心による報復を非難した言葉ではないかと考えます。もしこの言葉を文字どおりに受け止めれば、悪の攻撃に対して歯止めがきかず、すべての善が犠牲になってしまいます。
また、相手の悪に対して自己防衛しないということは相手の悪を認めたことになり、相手に悪を行わせてしまったという点で、逆に罪を犯したことになるのではないかと思います。
「右の頬を打つような者には左の頬もむけなさい」とは、悪を押しとどめる戦いは正義であり、憎しみからくる報復に対しての戒めであると解釈します。
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