2014年08月17日

右の頬を打つような者には左の頬もむけなさいの真意

右の頬を打つような者には左の頬もむけなさいの真意

内村鑑三氏は、「山上の垂訓は群衆に対する説教にあらず、弟子に対する訓戒なり。その心してこれを読まざれば、よくその真義を解する難し」と書いています。内村鑑三聖書注解全集より

聖書もその時代背景や状況を、当時と同じ視点にたって洞察しなければ、誤った解釈をする可能性があります。

「右の頬を打つような者には左の頬もむけなさい」この言葉をどのように理解すればよいのでしょうか。
内村鑑三氏は以下のように解釈しています。
「これは一般道徳ではない。信者道徳である。現世の道徳ではない。天国の道徳である。信者の国なる天国においてのみおこなわれる道徳である。
山上の垂訓を、イエスの宣べたまえし人類の一般道徳とみて、その不可能事たるは何びとが見ても明らかなり。」
かなり合理的な解釈をされているように感じられます。
仏教で例えるならば、修行者の反省として八正道があります。八正道の前提条件が正しい信仰、仏陀に対しての信仰があって初めて正しい見解ができるようになります。
それから自分の先入観にとらわれずに白紙の状態で観察する、あるいは、縁起の理法に基づいて現在の自分の苦しみの原因を論理的に分解していく、未来に対して、自分の今の心のあり方や行動は、どのような結果が生じ、どのような報いが現れるのだろうかなど、正見一つをとってみてもかなりの論理的な思考力が必要であり、プロとしての修行課題だと思います。
やはり八正道の実践などは、一般の人達にとってはかなりハードルが高い修行だと思います。
内村鑑三氏は、このように山上の垂訓、「右の頬を打つような者には左の頬もむけなさい」といった教えは、プロの教えであり、すべての人が守るべき教えではないと解釈したのでしょう。


「右の頬を打つような者には左の頬もむけなさい」の意味を解釈する前にイエス様の3年間の生涯を振り返ることでヒントがつかめるかもしれません。

イエス様は、荒野で悪魔と対決しています。最後は『サタンよ、退け』と一喝して、悪魔を撃退しています。これ以外にも聖書を読み返してみますと、悪霊に憑依された群衆から悪霊を追い払っている記述がいくつかあります。
これをみると、キリスト教の本質は、悪霊に対して徹底的に戦う姿勢が伺える力強い宗教であると自分は思います。
哲学者(ニーチェ)や霊人のなかにはキリスト教は、最後に十字架にかかったイエス様を表面的にとらえて、弱い宗教と思われています。
しかし、上記で書きましたように、当時の社会情勢や悪霊との対決をみるとイエス様自身は愛の人であると同時に戦う人であると自分は思います。
また、ヨハネの福音書には、「牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわりこんでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には『これらのものを持って、ここから出て行け。私の父の家を商売の家とするな』と言われた。

と書かれています。私ごときにイエス様のお考えがわかるはずがありませんが、あえてこれらの出来事から「右の頬を打つような者には左の頬もむけなさい」という意味を解釈しますと、悪や誤てる行為にたいして徹底的に戦う姿勢が大事であると思います。宗教の使命は悪を押しとどめ、善をおし進めることですから、自己防衛を禁止しているのではなく、恨み心による報復を非難した言葉ではないかと考えます。もしこの言葉を文字どおりに受け止めれば、悪の攻撃に対して歯止めがきかず、すべての善が犠牲になってしまいます。
また、相手の悪に対して自己防衛しないということは相手の悪を認めたことになり、相手に悪を行わせてしまったという点で、逆に罪を犯したことになるのではないかと思います。

「右の頬を打つような者には左の頬もむけなさい」とは、悪を押しとどめる戦いは正義であり、憎しみからくる報復に対しての戒めであると解釈します。


ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 01:35 | Comment(1) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月15日

スウェーデンボルグとヘレンケラー この偉大な人物

スウェーデンボルグとヘレンケラー この偉大な人物

ヘレンケラーの著作は、昔から何冊かは読んでいました。しかし、ヘレンケラーに直接的な霊的体験があったことまでは知りませんでした。ヘレンケラーの著作を読んでも、愛や霊について書かれていた本は何冊かありますが、自分自身の体験談として、霊的体験をしたことに関して書かれた著作は、自分の知る範囲でないからです。

ヘレンケラーは12歳の時、魂は空間的・時間的な制約を受けずにアテネへと飛翔した幽体離脱をするという霊的体験をしています。

しかし、このような霊的な体験をする以前にヘレンケラーは、霊的な探究と読書を通して、創造主や聖書について自分が納得するまで知ろうとする努力を積み重ねています。

この霊的体験を通して、肉体に宿る霊的存在、魂こそが本当の自分であるという真理を、自分の体験を通して本にしています。
「文字が私の魂の体となる」というような言葉を残しているようです。

また、ヘレンケラーはスウェーデンボルグを深く敬愛していたことも知っています。彼女自身の霊的覚醒と深く結び付いていたのだと思います。

私自身も幸福の科学と出会う以前から、スウェーデンボルグの著作を読んだことはありました。
スウェーデンボルグがどんな人物だったのか、他の思想家の意見を抜粋してみます。

エマーソンは、「月光から不老薬を精製しようとする夢想家というふうに同時代の眼には映ったこの人物が、当時の世界にあって誰よりも真実の生を生きたことは疑う余地もない。巨大な魂をもった人物だった。その時代の人にはとても理解できないほどかけ離れており、彼を認めるには長い焦点距離が必要だった。」

スコットランド人のトマス・カーライルは「偉大な人物。議論の余地がない教養人。強靭で数学的知性をもち、すこぶる敬虔で、天使のような資質の持ち主であった。・・・彼の著作には、他のだれの著作より、多くの真実が表明されている。」

エルバート・ハバードはスウェーデンボルグとシェイクスピアの比較においてこのように述べています。「どちらも神話的巨人であった。・・・歴史が始まって以来、彼ほど広範な物質科学の知識を詰めこんだ人は他になく、その知識のすべてを背負い込んで、こんなに果敢に雲の彼方へ旅立った人もいない。一般的にいって、天の高みまで翔け昇って、あの世の消息を良く知った人というのは、えてして物質科学のことなどほとんど知らないものだ。その時代、スウェーデンボルグほど優秀な科学者はいなかったし、天界の王国をかくも詳細に描写した者は後にも先にも彼一人である。」

詩人のエリザベス・バレッド・ブラウニングは「私の心にとって、来世を照らしてくれた唯一の光はスウェーデンボルグの哲学の中にあります。それは理解しきれなかった多くの説明をしてくれます」

私自身も、幸福の科学以外で尊敬する人物、あるいは、見習いたい偉人としての生き方は、スウェーデンボルグです。

そして天界での生活とは、すべての物質的な制約から自由になった状態であると考えるのが一番よいであろうとスウェーデンボルグは簡潔に述べられています。

つまり霊界とは、すべての魂が一つの壮大な『役立ち』のシステムの中で相互に関係しながら、結び会わされています。それぞれの個人の魂は、互いに依存しながら自分なりの仕方でより完全な成長を遂げ、ますます増大していく幸福感に対応して、より多くの責任感を持つようになります。とヘレンは言います。

天界では、個人の魂は自分に合った方向で進歩、成長していく中で喜びを満喫していきます。一方で、すべての魂は依存関係でなりたっていますので、個人の成長がその霊界全体の発展にもつながっていると思えます。個人の私的幸福が全体の公的幸福につながるのが天界の幸福論でもあり、幸福の科学の幸福論でもあります。

また、この地上もやはり同じ、『役立ち』の法則に支配されているのがわかるでしょう。私たちの身体の各部分は、その他の部分に役立つために存在しています。ということを科学は教えていますが、神は似たような目的を自然の中にも吹き込んでいますと、ヘレンケラーは言います。

個人は自分の霊的な成長のために、地上での魂経験を積んでいきますが、その過程で自分の成長が他の人の役に立てるような生き方が、霊的世界の価値基準に照らしても正しい生き方であると思えます。




ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 20:06 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。