2014年08月21日

知識は思索して智慧になると思う

知識は思索して智慧になると思う

霊的法則に裏打ちされた真理は、地上的な知識だけでは理解できない場合もあると思います。
地上的学問だけでは、霊界世界や魂について、あるいは転生輪廻の考え方や人生の目的と使命を知るには、無理なところがあるのではないかと思います。

信仰とは自分が理解できない内容であっても、信じて受け入れる姿勢が含まれていると考えられます。
霊界世界や転生輪廻など地上における経験を超えた認識に関しては、「自分の知識や経験からでは霊的世界観や魂、人間の目的と使命がわかりませんが、主が言われるのであればそれを信じて受け入れます」という姿が信仰者のあり方であると自分は思います。

素直な心で真理を受け入れることで、思考したり深く思索しなくても、仏の教えを受け止めることができるという考え方もあるかもしれません。理性のフィルターを通すことでしか理解できない人は、魂が素直でなくねじ曲がっているという考え方をする人もいるかもしれません。
しかし、この考え方は一見すると正論のように感じられますが、自分は違うのではないかと考えます。
まず、素直な心をどのように考えているのでしょうか。
知性や理性を無視した純粋な心で受け止めることが大事で、自分自身の余計な考えをはさまずにありのままに受け止めればよいと考えているのでしょうか。
真理をそのまま受け止めて自分のものにできるのであれば、何の精進があるのでしょうか。そのように、自分は知性や理性という余計なフィルターを通さないでもわかると思っているのでしたら、本当は何にもわかっていないのではないかと思います。

シュタイナーは以下のように述べています
「思考の根源と意味について、あらためて問わなければならない。なぜなら、われわれの魂の働きである思考活動を認識することなしには、何かについて知るということ、それ故行為を自覚するということの意味を理解するのは不可能だからである。思考が一般に何を意味するかを認識するとき、人間の行動にとって思考がどんな役割を演じるのかも明らかになるであろう。」

ヘーゲルも思考に重要性について以下のように述べています。
「動物にも備わっている魂を精神に作り変えるは、思考の働きである」

思考こそが人間の行為に人間らしさの特徴を与えている、と自分は思います。

私達は最初に、観察を通して知覚内容を得ることができます。しかし、その知覚内容は、無秩序でバラバラな混沌の状態におかれていると考えられます。そのバラバラな知覚内容を統一的にまとめ上げるのが思考であると考えます。
知覚内容は思考を通して概念と結び付けられます。概念から照らされる光によって初めて知覚内容に意味付けがなされます。
例えば、「空」という言葉の説明として以下のように教わったとします。
「この世の存在は幻である。霊的世界こそ実相の世界である」
はたしてこれだけの説明で「空」という言葉の意味を納得することができるのでしょうか。
純粋な心はもちろん大切です。それは福音書や仏典などを読めばその通りでしょう。もちろん純粋な心を否定するつもりなどありません。
しかし真理に関して述べている宗教や哲学は、思慧(思索によって得られる智慧)や修慧(修行によって得られる智慧)を通して理解することが大切であることは沈黙の仏陀で述べられている通りです。

真理を学ぶことで自分の内面に、新しい概念が形成されていきます。新しい知識(例えば空)を教わっても、空に対しての知識は無秩序でバラバラな状態であり、自分のなかでしっかりとした位置付けができていない状態です。
しかし、「空」という知識を、思考を通して概念と結び付けることで、空の意味を認識することが可能になり、今までの自分の概念がより発展したことになると思います。


心の領域に含まれる知性や理性という魂に与えられた高度な認識領域を通して思索することを否定するということは、人間の精神を否定し、動物と変わらない状態になることを意味していると考えます。
本人はそこまで考えていないかもしませんが論理的に詰めていけば、そのようになると思えます。




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posted by ガンちゃん at 01:30 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月19日

招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない 狭い門からはいれ

招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない 狭い門からはいれ

福音書におけるイエス様の言葉で、招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないというお言葉が残されていますが、現代的にどのように解釈すればよいのでしょうか。

書店に行けば幸福の科学の真理の書籍が、たくさん並んでいます。また、信者の方達は、献本や伝道を通して、多くの方に真理を知るきっかけを与えています。

これは神の国、天の門を通るためのきっかけであります。招かれる者は多いとは、知るためのチャンス、平等性にあると考えられます。

しかし、イエス様は次のように述べられています。
「狭い門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていく者が多い。命にいたる門は狭く、その道は狭い。そして、それを見いだす者が少ない。
すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
良い実を結ばない木はことごとく切られて、火のなかになげこまれる」

これは、キリスト教徒にしても幸福の科学の信者にしても入会しているだけでは駄目であるということだと思えます。
まず、信仰心が確立して清らかな心を持ち、霊的教え、仏法真理に従って法を守ることが必要であると考えます。
良い木からは良い実が、悪い木から悪い実が結ばれるとは、原因と結果の法則、縁起の理法の説明を例え話におきかえて説明されていると自分は考えています。

悪い木が、原因や条件に相当するのでしょう。悪い実がその結果であると考えられますが、同じ真理を学んでもいても理解の仕方が人によって違います。
過去世の人生における影響や、今世における家庭環境や学校教育によって、仏法真理が正確に理解されていない可能性があります。

例えば、幸福の科学の教義では、責任は自分自身にある自己責任の原則があります。どのような結果が自分自身に跳ね返ってきても、その原因は他人や環境に原因があると考える前に、自分に問題がなかったかを真理に照らして反省します。
ところが会員であっても、自分は全く悪いという考えを持てない人もいます。反省の教えも自分に対しての反省ではなく、相手に反省を求めてきます。
また、基本教義を学んでいるとは思えない人にかぎって、占いや宇宙人に関心があり、それが神秘主義でありスピリチュアリズムだと考えている人もいます。

宇宙人や神秘思想を学ぶことも大切ですが、最初に学ぶべきは仏法真理の基本教義であり、基礎をしっかり学んでおかないで、どのように善悪の価値判断ができるのでしょうか。

招かれる人とは、仏法真理の書籍などを手にして学んだことがある人です。しかし、教学を軽視して霊的現象や宇宙人ばかりに関心が向き、利他には関心が向かない人は、選ばれたる人に入らないのかもしれません。

そして狭き門を通る人とはどのような人なのでしょうか
その門を通ろうとする者は、自分自身の悪しき傾向に打ち勝つために、多大な努力をしている方ではないかと思います。
その人の道徳的変化や、その悪しき傾向を抑制するために払う努力をしている人、主を愛し隣人を愛する人に、狭き門の扉が開くのでしょう。



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posted by ガンちゃん at 20:10 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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