霊的法則に裏打ちされた真理は、地上的な知識だけでは理解できない場合もあると思います。
地上的学問だけでは、霊界世界や魂について、あるいは転生輪廻の考え方や人生の目的と使命を知るには、無理なところがあるのではないかと思います。
信仰とは自分が理解できない内容であっても、信じて受け入れる姿勢が含まれていると考えられます。
霊界世界や転生輪廻など地上における経験を超えた認識に関しては、「自分の知識や経験からでは霊的世界観や魂、人間の目的と使命がわかりませんが、主が言われるのであればそれを信じて受け入れます」という姿が信仰者のあり方であると自分は思います。
素直な心で真理を受け入れることで、思考したり深く思索しなくても、仏の教えを受け止めることができるという考え方もあるかもしれません。理性のフィルターを通すことでしか理解できない人は、魂が素直でなくねじ曲がっているという考え方をする人もいるかもしれません。
しかし、この考え方は一見すると正論のように感じられますが、自分は違うのではないかと考えます。
まず、素直な心をどのように考えているのでしょうか。
知性や理性を無視した純粋な心で受け止めることが大事で、自分自身の余計な考えをはさまずにありのままに受け止めればよいと考えているのでしょうか。
真理をそのまま受け止めて自分のものにできるのであれば、何の精進があるのでしょうか。そのように、自分は知性や理性という余計なフィルターを通さないでもわかると思っているのでしたら、本当は何にもわかっていないのではないかと思います。
シュタイナーは以下のように述べています
「思考の根源と意味について、あらためて問わなければならない。なぜなら、われわれの魂の働きである思考活動を認識することなしには、何かについて知るということ、それ故行為を自覚するということの意味を理解するのは不可能だからである。思考が一般に何を意味するかを認識するとき、人間の行動にとって思考がどんな役割を演じるのかも明らかになるであろう。」
ヘーゲルも思考に重要性について以下のように述べています。
「動物にも備わっている魂を精神に作り変えるは、思考の働きである」
思考こそが人間の行為に人間らしさの特徴を与えている、と自分は思います。
私達は最初に、観察を通して知覚内容を得ることができます。しかし、その知覚内容は、無秩序でバラバラな混沌の状態におかれていると考えられます。そのバラバラな知覚内容を統一的にまとめ上げるのが思考であると考えます。
知覚内容は思考を通して概念と結び付けられます。概念から照らされる光によって初めて知覚内容に意味付けがなされます。
例えば、「空」という言葉の説明として以下のように教わったとします。
「この世の存在は幻である。霊的世界こそ実相の世界である」
はたしてこれだけの説明で「空」という言葉の意味を納得することができるのでしょうか。
純粋な心はもちろん大切です。それは福音書や仏典などを読めばその通りでしょう。もちろん純粋な心を否定するつもりなどありません。
しかし真理に関して述べている宗教や哲学は、思慧(思索によって得られる智慧)や修慧(修行によって得られる智慧)を通して理解することが大切であることは沈黙の仏陀で述べられている通りです。
真理を学ぶことで自分の内面に、新しい概念が形成されていきます。新しい知識(例えば空)を教わっても、空に対しての知識は無秩序でバラバラな状態であり、自分のなかでしっかりとした位置付けができていない状態です。
しかし、「空」という知識を、思考を通して概念と結び付けることで、空の意味を認識することが可能になり、今までの自分の概念がより発展したことになると思います。
心の領域に含まれる知性や理性という魂に与えられた高度な認識領域を通して思索することを否定するということは、人間の精神を否定し、動物と変わらない状態になることを意味していると考えます。
本人はそこまで考えていないかもしませんが論理的に詰めていけば、そのようになると思えます。
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