2014年08月24日

哲学と幸福学の関係

哲学と幸福学の関係

人間にとって幸福とはどのような状態をいうのでしょうか。
人には個性に違いがありますので、それぞれ求める幸福や喜びも違うかもしれません。
幸福を定義するのは難しいと感じますが、大きく2つに分けると、持続性のない一時だけの空しい幸福と、精神や魂が感じとることができる喜びがともなう幸福があるのではないかと思います。

持続性のない幸福とは、肉体を喜ばすことを中心とした精神性がともなわない動物的喜びだと考えられます。具体的な例は考えれば浮かんでくる内容だと思います。

魂が喜ぶ幸福とはどのようなものでしょうか。
キリスト教徒や仏教徒であれば、瞑想を通して交わされる霊天上界との交流かもしれません。
ギリシャ的哲学であれば知を愛する愛知者が幸福の体現者かもしれません。
真理の知ることの喜び、認識力が拡大していく喜びに、人間としての真実の幸福を感じているかもしれません。

政治や経済のなかで発展していくことに喜びを感じている人もいるでしょう。

しかし、幸福論全般に対して体系的学問として確立した先駆者がギリシャのアリストテレスだといわれています。アリストテレスはその著書をみればわかるように、学問の源流になっているような人物です。
ギリシャの同時代に、ソクラテス・プラトン・アリストテレスが生まれ合わせ、現代の哲学、学問の基礎を築いていきました。
同じ時代にインドでは悟りを開いた仏陀が仏教を広めていきます。
500年後にイエス様が愛の教えを広めていきます。

2000年〜2500年前に現代の基礎となる宗教あるいや哲学、学問の種が蒔かれて、その時代に大きな山脈がつくられました。

アリストテレスはアレキサンダー大王の先生をしていましたので、学問的に教えることができた人であると同時に、古代のギリシャの学問を分類・整備して集大成した哲学的巨人であります。

アリストテレス中央公論社を読んだことがありますが、難しいという記憶以外に残っていませんが、西田幾多郎の「善の研究」とあわせて再読しようかなと思った次第です。


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posted by ガンちゃん at 00:27 | Comment(2) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月23日

法は魂の進化にあわせて段階的に説かれると思う

法は魂の進化にあわせて段階的に説かれると思う

内村鑑三氏は福音書のイエス様の教えについて、直弟子に説かれる訓戒と、一般の衆生に説かれる教えとが福音書に述べられているので、地上的な常識で言葉の意味を理解しようとすると、真義を理解するのは難しいと述べていました。
仏教においても、出家者に対しての教えと、在家者に対する教えでは対立矛盾する教えを説かれていたと思います。
在家に対しては、額に汗して働いて稼いだお金は善であるといわれていますが、出家した修行者が俗世間にまみれて金儲けする行為は正しい修行者としてのあり方ではないといわれていたと思います。

仏陀以外に例えば、空海も書き遺していたと思いますが、「応病施薬」という言葉があります。患者さんの病気に合わせた薬を施さなければ、効果は期待できません。
お腹が痛い人に風薬を与えれば、さらにお腹の調子が悪くなるでしょう。仏陀の教えには八万四千の法門があるといわれています。そのように多くの教えを説かれた理由の一つは、多くの人々がいろんな悩み苦しみを抱えて苦しんでいますので、一人一人のあった処方箋を出さなければ、救うことができないという慈悲や愛の思いから多様な教えを説かれたのでしょう。

また、人それぞれの経験の違い、勉強量、あるいは前世における修行態度によっても、今世にたち現れてくる苦しみにも違いがあるでしょう。

ですから単純に一つの考え方や一つの思想では、地上におけるさまざまな問題や個人における悩みを解決していくことはできないのではないかと思います。
八万四千の法門が説かれた事実からして、人間の悩み苦しみはそのような単純なものではないと自分は考えます。

イエス様が言う「汝の敵を愛せ」という言葉があります。霊的世界においては、相手を憎むという心自体が理由に関係なく地獄的です。
相手に対してであろうと自分に対してであろうと心の鏡に映ったその憎しみは、自分に反射してきます。
しかし、国レベルで考えた時、自国を侵略しようとする国があるにもかかわらず、敵国を愛していたら、侵略されて多くの人が苦しみのなかにおかれます。

このような事態には別途、正義という観点が必要です。善悪のうち、相手が悪であるならば、戦わなければなりません。相手の悪を押しとどめる戦いは、正義という観点から考察すれば、明らかに正しい行為です。
ですから一つの言葉、一つの思想を単純に推し進めていけば、対立を超えられるとする考えは間違いであると思えます。

人間には仏性・神性が宿っています。この真実を世界中の人が心から信じることができれば宗教的な対立がなくなる可能性はあります。
肉体的なつながりが無くても、霊的には深いところで神仏と同じものを共有しているならば、そこに愛の気持ちが芽生えてくるでしょう。

しかし仏性があるという教えだけで、宗教的対立が乗り越えられるのでしょうか。上記で書きましたように、一人の人間であっても、環境や経験のちがい、前世のカルマ、魂の傾向性が違いますので、単純に受け入れさえすれば、宗教的な対立を乗り越えられると考えるのは無理があると自分は思います。

日本の歴史のなかですら最澄と徳一の論争(三一権実論争)がおきています。それも現代まで解決がついていません。
仏性をもっているという認識だけで宗教的な対立を乗り越えられると考える人は、仏性があるから成仏できるとする『一切衆生悉皆成仏』が正しいと言っているように聞こえます。

このようにすべてにおいて難しく考える人は、魂が素直でなく霊感が全くない人で、単純に考えてすべてをありのままに素直に受け止めることが大切だと主張する人が本当に霊的な直観力が優れていて、天上界の霊的指導をうけているのでしょうか。

このようなことを主張する人の特徴は、教えの段階論を理解していないかもしれません。
例えば、どこかの霊能者?が○○の霊言と称して、その言葉を書きおろしたとします。
その○○がイエス様であったり、仏陀であったりするわけです。
しかし総裁先生は、波長同通の法則があり、同じ程度の悟りがなければ通信をうけることはできないと教えていただいたと思います。
しかも、霊言を下ろしてくる霊人を特定することは難しく、六大神通力がなければ見抜けないといわれていたと思います。イエス様でさえ、誰が自分に通信を下ろしていたか特定できていなかったといわれていたと思いますが、○○の霊言というだけであっさりと信じてしまうのはどうしてなのか、ちょっと私には理解できません(私自身の心が素直でなく霊的な感受性が弱いかもしれませんが)。

ということは、総裁先生の霊言と、どこかの霊能者の霊言の区別すらつかないということなのでしょうか。
もちろん私には霊言の正邪をわける認識力などありませんから、総裁先生の霊言のみ信じようと考えていますが・・・

もちろんアラン・カルデック等のスピリチュアリズムも内容的に自分は納得できるので、信じています。

最終的には信じる・信じない、の問題になりそうなので、私もあまり余計なことは言ってはいけないと自覚しなければいけないと思っています。



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posted by ガンちゃん at 03:20 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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