2014年08月28日

有と無を統一した先にあるもの

有と無を統一した先にあるもの

有と無を統一した概念とは「変化」であり、その先にあるものは、時間と空間の本質である。
上記が私の考える結論です。

有とは、物質的なもの五感を通して確認ができるものです。龍樹の思想を引用すれば世俗諦という立場で、肉体感覚に基づく地上的なものを肯定する立場です。人間の本質は霊的存在であり精神こそ本当の自分自身でありますが、肉体に宿っている以上、この世での常識的な感覚を無視することができません。
ですから、地上的なものは「滅び」を内包した存在ではありますが、幻だとしても無視して生きていくことができないという意味で、一通りの真理です。
世俗的な真理(世俗諦)という立場です。

無とは有を否定する立場です。
地上にある物質や物体は、常に変化し最後は滅びていきます。本質的なものとは時間の流れの中で形や性質を変えずに不変であるはずです。
また、本質的なものは他に依存しないで自立的であるはずです。更に複数のものが集まって構成されているものではありません。しかし物質とは分子が集まって構成されています。その分子も原子が集まって成り立っていますし、原子も陽子と中性子で原子核を構成し、電子が核のまわりを一定の条件のもとに自転しながら公転しています。
このように、たえず運動しながら素粒子が集まり、一定の粒子が存在していますが、複数のものが集まって一つの粒子をつくっている存在形式は本質とはいえません。
あるいは、一定の時間の幅では存在が確認できますが、その幅をこえると消滅します。
一瞬のつかの間であろうが、数百年であろうが、最終的に滅びるのであれば、それは幻であり蜃気楼です。ですから感覚器官という、不正確な物差しで確認したとしても、それは本質ではなく、つかの間の幻であるという立場が無であると考えます。

それでは「有」と「無」は全くの相反する概念なのでしょうか。
対立する概念はより高度な概念によって止揚統一されるのではないかと思えます。
有と無を統一するものは『変化』であると言えるのではないでしょうか。

物質を肯定する立場である有は、本質を欠いている点で否定され、この世は仮であるが幻としての存在も無視できないので、無も否定されます。
有と無を統一する概念は変化であると考えます。

その変化の先には何があるのでしょうか
なぜすべてのものは変化の中にあるのでしょうか
それは時間と空間の本質に関係があると、私は考えています。

有と無を統一する立場が変化であると定義しましたが、物質の変化、現象が変化するには、そこにエネルギーの作用があるのではないかと考えます。
エネルギーが作用したということは、その分エネルギーが使用されたということであり消費されたと考えることが可能であると思います。
『時間』とは自然界のエネルギーの消費であると考えます。
「時は現象の変化であり、現象の変化はエネルギーの消費をもたらす」ならば現象の変化が激しいほどエネルギーの消費量が多く時間の進みも速いはずです。
時の経過が早いとは、短い時間に大量のエネルギーを消費したということにつながると考えます。
また時間とは、存在の運動形式でもあるといえます。
例えば、バケツに10リットルのエネルギーが入っています。1秒間にすべてを流せば10リットル分のエネルギーが発生し現象の変化(存在の運動形式)が激しいが、時間は1秒間と短いはずです。
しかし、1秒間に1リットルずつ流せば時間は10秒間に伸びますが、現象の変化(存在の運動形式)は1秒間に1リットル分のエネルギーしか発生しませんので小さいと考えられます。

またエネルギーと物質(空間)は同等のものとして扱うことが可能であります。物質とエネルギーは倒置変換ができるので、エネルギーの消費は時間の発生と当時に空間をも創造します。
時間と空間を時空として統一できるのは、どちらもエネルギーの流れ(運動)によって発生するからだと考えます。

問題はどこにある何のエネルギーを消費しているかです。
私達が住む物質世界といわれる3次元世界を包みこむ形で存在している4次元や5次元のエネルギーの消費(減少)が3次元におけるエネルギーの発生であり、そのエネルギーによって時間と空間が発生したのではないかと考えます。

諸行無常といわれるように常に変化する物質世界には、高次元からのエネルギーの供給があり、その供給が途絶えた時、物質的存在は変化しなくなると同時に消えてなくなるはずです。



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posted by ガンちゃん at 17:06 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月25日

絶対矛盾を統一する可能性

絶対矛盾を統一する可能性

絶対に溶かす液体と絶対に溶けない入れ物があると主張する商人がいたとします。
すでにこの商人の意識には分裂がおきています。
このように基本となる根源的対立は、まず私達の意識の中に現れてきます。
対立矛盾して見えるのは人間の意識と関係があるかもしれません。
唯心論や人間原理という考え方があります。人間と宇宙の関係とは相互依存しているという考え方で、人間が観測したとき、はじめて宇宙は実在する?といった量子力学の哲学的な側面、純粋思索から生まれた考え方です。

一般的な科学的世界観によれば、この世界は客観的現実であり、たとえ観測者であるわれわれ人間が存在しなくとも、世界は厳然として存在します。
古い哲学的命題にこういう話があります。
「森の中で木が倒れましたが、あたりにはそれを聞く人が誰もいませんでした。はたして、木は倒れる音を発するでしょうか?」
この問いに対する科学的な回答は常にこのようなものでした。
「森で木が倒れたならば、必ず音を発し、大気中に音波が伝わると・・・」
しかし、量子力学では、観測されないかぎり何事も客観的には実在しないとして、この仮定に疑問を投じてくるのです。

意識を有する存在(人間)が観測を通して、初めて実在を確認することができます。意識がなければ、そこに事物の存在を知ることはできません。
意識を持つ人間が存在することで初めて、宇宙は実在するのであり、人間と宇宙は相互に関係しているという考え方です。

対立矛盾は人間の意識と関係がありそうです。

次に部分と全体について考えてみます。
盲目の人がゾウの足だけを触ってゾウを認識したとします。ゾウとはどのような生き物だと考えるでしょうか。おそらくゾウという生き物は大木のような硬い存在だと認識するでしょう。
別の盲目の人がゾウの鼻だけを触ったと考えます。どのように認識するのでしょうか。
おそらくゾウという生き物は縄のような柔らかい存在だと感じることでしょう。

大木のような硬い存在という認識と縄のような柔らかい存在という認識は、対立矛盾した考えです。

目の健康な人がゾウを見たらどのような認識をするかと言いますと、柔らかい縄の部分は鼻であり、大木のような硬い部分は足であるだけで、全体的にみればゾウという動物はこうであると簡単に説明することが可能です。

矛盾を統一する一つの可能性として認識力の拡大をあげることができると思います。
もし、全体像をつかみとることができる認識力ある人がみれば、部分で対立矛盾している事物を統一することが可能なのではないかと思えます。

事物が私達の前に謎めいてみえるのは、認識力が狭いために部分しかつかめず、お互いが対立しているように見かけ上そのように見えるだけで、認識力の深さや広がりに応じて、矛盾する事物を統一することが可能であると思います。


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posted by ガンちゃん at 20:30 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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