2014年08月31日

死後の世界は死んでから考えればいいでは遅いのです

死後の世界は死んでから考えればいいでは遅いのです

四苦の苦しみとして老・病・死があります。
一般的な人間の考え方だと思うのですが、自分が年老いた姿というのは、なかなか想像できません。
若さのおごりという言葉もありますが、現在,自分のおかれている状況から数年、数十年後の自分の姿を考えることは難しいことだと思います。
また、健康な人が病気に関して心配することもあまりないことだと思います。しかし、一度でも大きな病気や事故にあうと、その後の人生で健康に注意しながら生きていくことが可能になります。
病気などで痛い目に遭うと食べ物に注意をしたり、一定の時間を利用して運動したりすることで、健康を確保しようとするでしょう。

しかし、死に関しては一度失敗した経験を教訓として、その後の人生にいかすということができません。死んだらすべてが無になって、苦しいと感じる自分の意識が消えると考えている人にとっては、死についての考えを先送りにしたいと思うかもしれませんし、そもそも考えもしないかもしれません。

宗教を含め、歴史のなかで死後の世界、霊的世界について書かれている本は、古今東西どこにでもありますが、現代では客観的に証明されることのない昔話であって軽んじて考えています。

しかし、死はどのような人にも必ず訪れます。霊界には大きく分けて天国と地獄があります。
霊的世界を信じない人は、地獄霊や悪魔からみれば操りやすい人間にみえるでしょう。

波長同通の法則により、地獄霊等に憑依されると、主体的に自分の意思に基づいて考え行動しているつもりが、実は、操り人形にされていたということもあります。
このような霊にあやつられたまま、死をむかえたらその霊と同じ霊界に、引きずり込まれるといわれています。
死んでからでは手遅れということです。なぜかといえば死んだ時点で結論が出ているからです。死んでから考えてもどうにもなりません。
試験当日に勉強しようとしても、もはや手遅れということになります。

正しい宗教や真実の哲学は、死の先にある世界を見据えて、今の実人生をどのような思いにおいて生きていくことが正しいのかを教えてくれます。

死んだら終りと考えて唯物論的な人生観で一生を終えるのか、霊界世界を受け入れて霊的価値観に基づいて実人生をいきていくのか、どちらを選ぶかによって結果が極端に違ってくるでしょう。

最終的には、肉体という目隠しをされた状態で、霊界という実在世界を信じることができるかどうか、この一点にかかっています。

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2014年08月30日

主観と客観の関係を認識する以前の自己 自分の前世を予想する

主観と客観の関係を認識する以前の自己 自分の前世を予想する


西田幾多郎の「善の研究」と幸福の科学の基本教義「幸福の原理」を対比する、を読んでいますが、総裁先生が学生時代に自分の考えを煮詰めながら、西田幾多郎の「善の研究」「思索と体験」など西田哲学のなかにある仏教哲学と思想的に対決をしながら、思想を熟成させていらしたようです。
西田哲学の「純粋経験」「善とは何か」「一即多・多即一」「絶対無」について『これは、どういうことを意味するのか』羽根木公園を散策しながら考えを深めていられました。(カントもよく散歩をしながら思索していたようです)

純粋経験について説明されているのですが、引用するとだいたい次のような内容になると思われます。
主体(自分)と客体(対象、相手等、自己とそれに対比される他のもの)の関係を認識していると思いますが、西田幾多郎は、主体と客体があって「自分は今このように考えている」と思う以前の自己という部分を哲学的思想として紡いでいった、と説明されています。

例えば、花が咲いているとします。これは花であると言葉を通して表現しますが、対象を花と認識し言葉として表現できる以前にも同じように花を見ていたはずです。
自分が対象を視覚的に捉え、自分の中に記憶している言語表現にあてはめて対象を表現するという以前に、経験に先立ちすべてがあるわけですが、すでに、すべてがある段階の悟りのことを言っているのだという意味に自分は理解しました。

難しくて正しく理解できていないと思いますが、禅の公安に「父母が人間として生まれる以前の自分は何なのか」というものがあるそうです。

これは、自分一人の自力では答えが出せるような公案ではないでしょう。高度な霊的能力でもないかぎり、父母が人間として生まれてくる以前の自己などわかるわけがありません。
幸福の科学で学ばれている人であれば、「前世の転生を終えて自分にあった霊界で魂として、あるいは霊的存在として生活しています。自分は両親になるべき魂にお願いをして、地上に約束して生まれてくるのであって、実存主義的に人間は地上に投げ出された存在ではありません。」と答えるかもしれません。

また、神秘主義では「人間は前世の記憶はすべて忘れさられています。しかし、前世の経験を通して身に付けた能力や深く魂に刻まれた出来事は、今世にも引きついでいる」と書かれていたと思いますが、仏教的にはカルマということに相当すると思います。

自分が幼い頃(主体と客体の関係を認識する以前の自己であるかどうかは微妙ですが)経験以前に漠然と思っていたことで現在でも記憶していることをあげるとするならば、私は小さい頃、自分の髪の毛が黒いので「どうして自分の髪はもっときれいな色でないのだろう」と不安に思っていたことがあります。
当時はまだ、外国人の存在をあまりよく認識していなかったので、経験に先だった思いであったのかと考えられます。
また、日本の教会を初めて見た時に、「どうしてこんなに小さく、美しくないのかな」という印象を持った記憶が現在でも残っています。

妄想が勘違いかわかりませんが、確かな記憶として覚えています。

幸福の科学における幸福の原理、「愛の原理」「知の原理」「反省の原理」「発展の原理」は、どこかにある材料を引用してつくったわけではなく「天上界から真っ直に与えられた原理」であるという意味で純粋経験なのでしょう。

しかしそれ以前に、自分の哲学と西田幾多郎の哲学をぶつけ合いながら思索し、あるいはプラトン、ヘーゲル、ハイデガー、ハンナ・アーレント、といった哲学者等にも影響をうけながら、幸福の原理の土台、基礎の部分がかためられていったのかと思います。



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posted by ガンちゃん at 16:57 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする