人間の本質であるところの魂、霊性の進化について考えてみます。
人間と宗教は切り離して考えることができない不可分の存在であると思いますが、宗教が人間の本質とどのような関係において結びついているのでしょうか。
ヘーゲルは、宗教哲学の講義で以下のように述べています。
「人間は思考するものであり、そのことによって動物と区別される。動物は感情を持つ。ただし感情しか持たない。これに対して人間は思考する。しかも人間だけが宗教を持つ。
そこから、宗教は思考のなかでも最も内的な座を占めるということが導き出される。」
人間は思考する存在であり、思考する存在以外に宗教を持ちえないと言われていると思いますが、宗教を通して神仏との関係を深めることができるのでしょう。
一般的に宗教は万人のためのものであって、万人むけではない哲学とは違う印象をうけますが、宗教も哲学もあつかう対象は同じであると思います。
宗教および哲学の対象は永遠の真理、すなわち神であって、神と神についての説明においてほかにないとも言われています。
現代人が唯物的価値観から聖書や仏典を読んだとしても、数千年前の話でまともに受けとめようとしないかもしれませんが、それはある意味で現代人が傲慢になっている部分もあるのではないかと思えます。
聖書を読んでも現代の常識から考えると、とても信じられないような内容が書かれています。
しかし、ヘーゲルは「言葉をそこに書いてあるがままに受け取り、言葉や文字を聖書の文字のままに理解するのではなく、その精神を理解しなければならない」と言われています。
これは大事な観点であると思います。例えば仏教には無我という教えがありますが、文字にとらわれると我が無いと書いてありますので、死んだら終りかという単純な結論になってしまいますが、上記で書きましたように人間は思考する存在です。
仏典を全体的に読めば、梵天や悪魔等、霊的な存在が書かれていますし、過去七仏といわれるように前世について、あるいは来世についても書かれていますので、総合的に判断すれば死んだら終りだという結論にはならないはずです。
ではなぜ、地上の人間には霊的なものが理解できないのでしょうか。もちろん人間に付随する感覚器官では霊的存在を捉えることができないのが原因であると思われますが、しかし、そのような理由が霊的なものを否定する根拠になるはずがありません。
ルドルフ・シュタイナーは神智学で以下のように述べています。
「魂界や霊界は物質界の隣にあるのでも、その外にあるのでもない。それらは空間的に物質界から区別されているのではない。手術で眼が見えるようになった人に、これまでの闇の世界が光と色に輝くように、魂と霊とに目覚めた人に、以前はただの物体として現れていた事物が、その魂的、霊的特性を明らかにするのである。魂的、霊的に目覚めていない人にはまったく知られていない様相や存在でこの世界は満たされている。」
つまり、人間の五感といわれる感覚器官が霊的なものに対応されていないので認識することができないのであり、霊的事物に対応することができる器官が人間に付随していれば、まったく違った世界が展開しているはずです。
肉体はあえてそのように創られているので、そこに魂の進化を促す修業としての課題があるのでしょう。
以前、アボットのフラットランドについて書いたことがありますが、このような内容です。
フラットランドに住む平面住人は、縦と横には移動できますが、高さ(上下)には移動できません。そのような平面世界に三次元的存在(スクエア)が来訪してくる話です。
私達、三次元に住む存在は、空間的に縦・横・高さ・に移動できても、過去の時間と未来の時間に移動することができません。
フラットランド人は視覚を通して、あるいは、いかなる推論からも『高さ』を実感することが出来ません。信仰として理解するしかないのです。
縦と横にしか空間的広がりを認識できないフラットランド人は、『高さ』の方向が極端に低いので観測が不可能であると説明してもいいかもしれません。
たとえば直線を私たちが見たとき、厳密にいえば、幅や高さも見ているはずです。長さしか持たなければ、三次元空間を占めることができず、私たちには見ることができないはずです。直線における高さの方向があまりにも低いため、通常は認識できないでいるだけです。三次元と四次元の関係も二次元と三次元の関係の延長にあります。
四番目の方向が極端に小さいので観測にかからないのでしょう。
上記の説明から精神の進化にとって大切なことを2点に集約すると、思考力、心の法則を解明し統御すること、もう1点は肉体という規定された枠組みのなかでどのようにして霊的世界の真実をつかむことができるか、それが人間の精神性を高めるための一つの方向であると考えます。
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