2014年07月12日

精神の進化とは

精神の進化とは

人間の本質であるところの魂、霊性の進化について考えてみます。

人間と宗教は切り離して考えることができない不可分の存在であると思いますが、宗教が人間の本質とどのような関係において結びついているのでしょうか。
ヘーゲルは、宗教哲学の講義で以下のように述べています。
「人間は思考するものであり、そのことによって動物と区別される。動物は感情を持つ。ただし感情しか持たない。これに対して人間は思考する。しかも人間だけが宗教を持つ。
そこから、宗教は思考のなかでも最も内的な座を占めるということが導き出される。」
人間は思考する存在であり、思考する存在以外に宗教を持ちえないと言われていると思いますが、宗教を通して神仏との関係を深めることができるのでしょう。
一般的に宗教は万人のためのものであって、万人むけではない哲学とは違う印象をうけますが、宗教も哲学もあつかう対象は同じであると思います。
宗教および哲学の対象は永遠の真理、すなわち神であって、神と神についての説明においてほかにないとも言われています。

現代人が唯物的価値観から聖書や仏典を読んだとしても、数千年前の話でまともに受けとめようとしないかもしれませんが、それはある意味で現代人が傲慢になっている部分もあるのではないかと思えます。

聖書を読んでも現代の常識から考えると、とても信じられないような内容が書かれています。
しかし、ヘーゲルは「言葉をそこに書いてあるがままに受け取り、言葉や文字を聖書の文字のままに理解するのではなく、その精神を理解しなければならない」と言われています。
これは大事な観点であると思います。例えば仏教には無我という教えがありますが、文字にとらわれると我が無いと書いてありますので、死んだら終りかという単純な結論になってしまいますが、上記で書きましたように人間は思考する存在です。
仏典を全体的に読めば、梵天や悪魔等、霊的な存在が書かれていますし、過去七仏といわれるように前世について、あるいは来世についても書かれていますので、総合的に判断すれば死んだら終りだという結論にはならないはずです。

ではなぜ、地上の人間には霊的なものが理解できないのでしょうか。もちろん人間に付随する感覚器官では霊的存在を捉えることができないのが原因であると思われますが、しかし、そのような理由が霊的なものを否定する根拠になるはずがありません。
ルドルフ・シュタイナーは神智学で以下のように述べています。
「魂界や霊界は物質界の隣にあるのでも、その外にあるのでもない。それらは空間的に物質界から区別されているのではない。手術で眼が見えるようになった人に、これまでの闇の世界が光と色に輝くように、魂と霊とに目覚めた人に、以前はただの物体として現れていた事物が、その魂的、霊的特性を明らかにするのである。魂的、霊的に目覚めていない人にはまったく知られていない様相や存在でこの世界は満たされている。」
つまり、人間の五感といわれる感覚器官が霊的なものに対応されていないので認識することができないのであり、霊的事物に対応することができる器官が人間に付随していれば、まったく違った世界が展開しているはずです。
肉体はあえてそのように創られているので、そこに魂の進化を促す修業としての課題があるのでしょう。

以前、アボットのフラットランドについて書いたことがありますが、このような内容です。
フラットランドに住む平面住人は、縦と横には移動できますが、高さ(上下)には移動できません。そのような平面世界に三次元的存在(スクエア)が来訪してくる話です。
私達、三次元に住む存在は、空間的に縦・横・高さ・に移動できても、過去の時間と未来の時間に移動することができません。
フラットランド人は視覚を通して、あるいは、いかなる推論からも『高さ』を実感することが出来ません。信仰として理解するしかないのです。
縦と横にしか空間的広がりを認識できないフラットランド人は、『高さ』の方向が極端に低いので観測が不可能であると説明してもいいかもしれません。
たとえば直線を私たちが見たとき、厳密にいえば、幅や高さも見ているはずです。長さしか持たなければ、三次元空間を占めることができず、私たちには見ることができないはずです。直線における高さの方向があまりにも低いため、通常は認識できないでいるだけです。三次元と四次元の関係も二次元と三次元の関係の延長にあります。
四番目の方向が極端に小さいので観測にかからないのでしょう。

上記の説明から精神の進化にとって大切なことを2点に集約すると、思考力、心の法則を解明し統御すること、もう1点は肉体という規定された枠組みのなかでどのようにして霊的世界の真実をつかむことができるか、それが人間の精神性を高めるための一つの方向であると考えます。


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posted by ガンちゃん at 09:39 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月06日

ハンナ・アーレント 人々を抑圧する全体主義かどうかのちがい

ハンナ・アーレント 人々を抑圧する全体主義かどうかのちがい

古代のギリシャの民主主義を理想としながらも、現代においては、理想とするギリシャ的民主主義を実現しようとする行為は、深い池に落ちていくことになると指摘しています。
民主主義は多くの人の意見を反映させ物事を決めていく、一人の独裁者による完全支配ではなく、多数決によって重要な問題など話し合いながら解決していくシステムです。

その民主主義も人口が増えすぎることで崩壊していきます。多くの人が神を信じない唯物論的なものの考え方に支配され、物事の善悪にたしての価値判断ができず、理性に基づいた考え方ができず、知識もなく、感覚的な空気によって物事を判断する人達が多くなった時、民主主義は崩壊していく以外にないと考えることができます。

しかも日本は民主主義と言いながら、その実態は社会主義です。ハンナ・アーレントからみたら日本は大きな政府なのでしょう。消費税増税、所得税、社会福祉といわれる名前を変えた税、経済を発展させる方向での政策を考えるより先に、国民から税金を取ることを最優先しています。
大きな政府は、自由が抑圧される全体主義につながっていきますので、国民は幸せを感じることがないでしょう。


政治学の原点では、民主主義の担い手として「考えることができる人」が自由という意味を解釈して、正しい結論に人々を導いていくことが大切であるということを述べられていたと思います。
仏教的に翻訳すれば、「上求菩提・下化衆生」という考えに相当するのでしょう。
上求菩提とは、個人として悟りを求める、あるいは深める考えだと思いますが、アーレント的には「観照的生活」に相当する考え方で、永遠の真理を探究する哲学者としての生活」と定義されています。
宗教的な側面、心の調律に関する観照的生活は人間の精神を深めるために必要な時間で、1日の内の数分でもよいから神仏に心を向ける必要があるといわれています。
下化衆生、一般の人々を正しい方向に導く、あるいは困っている人達に救いの手をさしのべるということですが、アーレント的には「活動的生活」に対応する考えで、頭だけで理論を構築するだけでは世界は変わらないので、実際の活動面を重視した方向です。
物質的な面で不幸な人達や貧しい人たちを救う活動がなされているのか。私達に不幸や貧しい人たちを救おうとする気持ちがあるのなら、キリスト教徒の欧米人にも受け入れてもらえるはずですと指摘しています。

考えることができる人と書きましたが、考えるとはいろんな角度から多角的に物事を観察しようとすることです。
日本人の見方やものの考え方と中国やアメリカ、ヨーロッパでは違うでしょう。背負っている歴史も宗教の違いもありますので、自分の見方考え方が正しいとは限りません。

そのような多角的に見ることができる人達が、自由の実現のための行動を起こす時、現時点での社会的常識とは合わない部分がでてくるでしょう。
第三者からみれば、権力を手に入れて一種の独裁政治、全体主義、専制政治を打ち立てようとする活動に見えることがあります。
トインビーだったかだれか記憶が定かではありませんが、歴史は「挑戦と応戦」の繰り返しによって発展していきます。
古い文明は新しい文明の興隆によって挑戦をうけます。今まで続いた文明は応戦しますが、挑戦を打ち砕いたときのみ生き残りますが、破れたときは滅びていくことになります。
ヘーゲルが述べていたと思いますが、歴史は一つの文明が滅びることで新しい文明が誕生します。
古い文明が続くということは停滞につながると思いますが、滅びることで新しい文明の誕生がある。
これが歴史上の発展の原理といいますか発展の法則であると思います。

大事な観点は、そこに神の愛があるのか、神の正義があるのかという点で、もし私達に神の愛や正義がある活動であるならば、独裁主義、全体主義ではないということです。



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posted by ガンちゃん at 01:37 | Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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