ヨハネの福音書には、有名なトマスの話が出ています。
イエス様の復活に際に、イエス様がトマスに対して「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである。」と述べられています。
「見ないで信じる者は、さいわいである」この一言に信仰心についての大切な考えが述べられていると思います。
実際に目や耳などで得られた視覚情報を知覚内容に変換して、対象を認識します。感覚器官を通して外界の情報をつかめなければ、自分の内的な知覚内容に翻訳できませんので認識できません。
認識できない、自分にとって「わからない」ということが否定につながっていいのかという問題です。すべてとは言いませんが、学者などは自分の学説によって説明できる領域を超えた現象に関しては、目の前で事実を突き付けても認めようとしないでしょう。真理、本当の正しさを求めるよりも、自己保身が優先している姿でしょう。
知るということは事実の確認です。あるいは個人差がありますが、認識力の広がりを意味していると考えます。それに対して信じるということは、現在進行形で自分の知ることができる範囲を超えた世界が実際に存在するということを認めることです。
わたしたちは肉体に宿ることによって不完全な生き方以外にできません。完全な人生を生きることができない以上、あるいは完全は知性や理性を持つことができない以上、自分の知ることができる以上に無限の信じる世界が広がっているということを認めなければなりません。
これは信仰心とも関係すると思われますが、謙虚さが大切であると(自分も含めて)いうことです。
無限に存在する信じる世界の片隅に、知ることができる世界がひろがっているというのが真実であると考えます。
20世紀の哲学者カール・ポパーは「プラトンの呪縛」を語ったとされる哲学者です。
ポパーは哲学者の使命とは、原始人たちの、無知蒙昧のタブーの社会、精霊信仰の素朴なアニミズムからの解放である・・・にもかかわらずプラトンは霊魂信仰や原始人が考えていたような素朴な魂の転生輪廻説を持ち出して、せっかく陽の当たる世界に出てきた人々を、またしても、洞穴のなかに閉じ込め、呪縛した。黄金の法参照
はたしてポパーが言うように、霊魂信仰や、魂の転生輪廻を信じることは原始人の考えなのでしょうか。
現代では、客観的証明ができないものは、事実認定されませんし、実際に霊やUFOを見たとしても事実認定しないでしょう。学問領域としては対象外ということで脚下ということになるのでしょうか。
信じるという行為は、人間にとってそれほど低いレベルなのか検証します。
人間には「感性」「知性」「理性」「悟性」という心の領域があります。
感性は物事を感覚的にとらえようとしますが、そのなかには価値判断が含まれていませんので、善に転ぶのか、悪に転ぶのか不安材料があります。
知性は狭義の意味で計算的な頭脳といわれています。この知性の中核をなすのが記憶能力と判断能力です。この2つの能力で知性が形成されていると考えてよいのではないかと思います。
記憶能力は、物事をよく知っている、情報収集能力であると考えます。
判断能力は、情報の分析能力であると考えていいと思います。
悟性とは、哲学的にはいろんな意味付けがされていますが、ここでいう悟性とは宗教的な悟性です。
宗教的な悟性の下支えとして、知性・理性があります。
知性と理性をベースにした霊的な直観だと定義します。
宗教によって信仰とは、目に見えない尊い存在、偉大なる高級霊及び神仏を信じ、敬う心であろうと思います。これは先ほど定義しました、知性・理性をベースにした霊的直観に対応するもので、人間としては高度な認識であると考えます。
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