2014年07月30日

本田圭祐の守護霊インタビューと極真空手

本田圭祐の守護霊インタビューと極真空手


本田圭祐の守護霊インタビューを読んでいたら、極真空手が思い浮かんできました。
極真空手の創始者は大山倍達という方で、テレビアニメの空手バカ一代の主人公であった人だと思います。以前、大山倍達氏が書かれた著書を何冊か読んだことがあったのですが、本田圭祐守護霊が話された内容と似ている部分があったので、ふと思い出しました。

本田守護霊は、奇跡に味をしめたら、プロとして駄目になると言われていました。また一瞬の判断、時間にして0.1秒の差が勝敗をわける、しかしその0.1秒を速めるためには、どのくらいの練習をしなければいけないかといいますと千時間じゃとても足りないと言われていたと思います。
大山倍達氏も勝敗は、0.1秒のスピードの差で、瞬時に相手の間合いを見切り正確に技を決めることができれば勝負に勝つことができるが、そのコンマ何秒の壁を破るのが非常に難しく、人の何十倍も練習する必要がある、という内容を述べられていたと思います。
常人からみれば、あらゆる分野の格闘家と対決し負け知らずで、人間と戦うことを乗り越えて牛と戦い、手刀でビール瓶をわり、更に、石を手刀でわり、十円玉を指で曲げ、という信じられない神業を繰り広げてきました。
普通は石を割ろうなどという発想すらわかないと思いますが、限りなく強さを求めていたのでしょう。
しかし、本田圭祐氏が心理学や宗教を学んでいたように、今、思いかえしてみると大山倍達氏の著書にも仏教的な内容が書かれていたように思います。
強さだけではなく、人間としての正しい生き方も勉強されていたのでしょう。
極真とは、真を極めると書きますので人間として、武道家としての道を極めようとされていたのだと思います。
大山倍達の名言です。適当に抜粋しましたので、宗教を学ぶうえでも何かの参考になるかもしれません。

頭は低く目は高く 口慎んで 心広く 孝を原点とし 他を益する。

金を失うことは小さい事である。信用を失うことは大きい事である。勇気を失うことは自分を失う事である。

実践なければ証明されない。証明なければ信用されない。信用なければ尊敬されない。

継続は力なり

権力にこびることなく 暴力に屈することなく 常に弱者の味方である。

正義なき力は無能なり。力なき正義も無能なり。

受けた恩は忘れるな。受けた恨みは忘れてしまえ。

道端で靴を踏んだ 肩が触れたら 君たちが頭を下げればいいよ。頭を下げてケンカを売ってくる人はいないよ。もしケンカを売ってきたらのばしてしまえ。何のために空手をやっているんだ。

人間にとって最も怖いのは、飢えと孤独だ。

何のために強くなるか?それは自分に打ち勝つためであり、義を通すためであり、人を導くためである。

もし大山倍達の霊言がでるようなことがあれば、世界中に広がる極真空手の門下生や格闘技ファンは、非常に関心をもって読まれるのではないかと思います。

大山倍達 後悔せず.jpg


最後に極真空手全日本空手道選手権大会の一試合をアップします。
このような世界もあるのかということで、世界観が広がれば幸いです。








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posted by ガンちゃん at 19:35 | Comment(4) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月28日

過去の宗教を学ぶ意味

過去の宗教を学ぶ意味

聖書やイスラム教や仏教は、過去数千年にわたって人類の進むべき方向性を提示してくれました。
キリスト教は西洋の歴史をあるいは文明を築いてきたと言っても過言ではないでしょう。

現在は大きな時代の転換期、端境期であります。永年にわたって人類を導いてきたそれぞれの宗教が、共通する価値を見いだし補い合うという方向に行かず、その教えの違いにのみ意識が向いてしまい、お互いが自分の所属する宗教の正当性を主張するあまり、他宗教を攻撃するという事態になり収拾がつかない状態になっています。
本来は根源の神の教えであるはずが、それを受け止める人間側の認識力の限界によって、相手の宗教を悪魔の教えだと勘違いし、相手を理解しようとはなりませんでした。

現代は根源の神が降臨し、すべての宗教を統合しながら、更に発展させ、それぞれの民族を地球人類としての意識に目覚めさせようとされています。

ゲーテの言葉だと思いますが、以下のように述べています。
「眼が太陽にそぐわぬものであるなら、どうして日光を見ることができようか。
我々の内部に神自身の力が宿っていなければ、どうして神的なものが、我々を魅了することができようか。」
宗教は違えども、すべての人には神性、仏性が宿っています。人間の尊さは魂の深い部分に神仏と同じ光を有しているから尊いと言えます。この神性や仏性を愛の心と言いかえていいかもしれません。

だからわたしたちは過去で説かれた宗教を学ぶ必要があると思うのです。
(もちろんすべての人の強要するつもりはございません。)
西洋文明を導いてきたキリスト教を学ばないで、西洋人の気持ちを理解することできるでしょうか。相手が信じている宗教を理解しようと努力する姿勢も愛に基づいたものであると思います。
総裁先生でさえ、数えきれないほどのあらゆる分野の本を読まれています。なぜでしょうか。それは一人でも多くの人を救いたいという愛の気持ちで読まれているのでしょう。
より多くを知ることは、より多くの人達に、導きの手を差し伸べることが可能になるからです。

もしかしたら、過去の宗教や哲学を学ぶことは、ただの知識の寄せ集めにしかすぎず、あれこれと説明してその人が自己満足しているだけである。聖書に書かれていることも、過去の出来事でしかないと思っている人もいるかもしれません。

しかし私はこのようなことを思っていたり、サラッと書いたりできる人の心のなかにこそ、危険なものが、恐ろしいものが潜んでいるのではないかと考えます。

現代は確かに仏陀の本体がお生まれになり、かつてない広大無辺な法が説かれています。それを学ぶことで過去の宗教を学ばなくとも、自分にはわかっているのだという考え方もあるかもしれません。
しかし、仏陀と仏陀の説かれた法は素晴らしくとも、それはあなたが素晴らしいということとはイコールではないということです。
信者歴何十年であろうとも、その発言が常に上から目線である人がどうして悟っていると言えるのでしょうか。

過去の宗教をふまえて幸福の科学の教えを学ぶことで、過去の宗教の共通点が浮き彫りとなり、寛容さがうまれ、説得力を持つようになるのではないかと思います。


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posted by ガンちゃん at 19:36 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする