釈尊在世の頃、富豪の息子シュローナという人がいました。かなり贅沢な暮しをし、甘やかされて育ってきた人ですが、ある時、釈尊の説法を聞くことにより、今までの自分の人生を悔いて、反省し人生を立て直そうとしました。そうすると何の猶予もなく人一倍修行に励んだそうです。インドの仏教では毎日、座禅を組むことが日課でその後に素足のまま歩きまわる(経品)修行に入るそうです。このシュローナは今までそのような修行などしたことがなかったのですが、今までの償いをするために、努力されたそうです。しかし、もともと過保護で育てられた為、その足はたちまち傷つき、血だらけになりました。それを聞いた釈尊がシュローナを呼び出して次のように問われた。
「汝、琴を弾いたことがあるか」
「家にいたころはよく弾いていました。」
「琴の糸がゆるみすぎたらいい音が出るであろうか?」
「それでは琴がなりません」
「糸を強くしめれば琴はなるであろうか」
「いいえ、それでもなりません」
「どうすれば、よい音がでるであろうか?」
「ゆるからず、強からず、適当に加減してはじめて琴がなります。」
「それと同じように修行もまたゆるすぎず、強すぎず、その度合いが必要である。」
『律蔵大品』
仏教的な正しさとは両極端を否定した中道であるといわれていますが、これを個人に引き直して実際の生活に生かすのはかなり難しいと思います。人間はどちらか極端な方向にいきやすい傾向があると思います。一方向ですと楽だからです。
多くの人は唯物論に毒されて、霊的世界に関心が向かず、欲望を満たそうと快楽中心の生活になりがちです。一方、肉体を非常に苦しめたりすることにより、悟りが得られるのではないかと考える人たちもいますが、そのどちらも真実の生き方ではないと仏教では教えています。
仏教は二律背反する二つの方向性を弁証法的に統一していきながら自分の人格を向上させ、認識力を高めながら、その悟りの力で周りの人を感化して行きなさいという教えです。(上求菩提・下化衆生)
単純にたして2で割ったのが中道で、ほどほどに生きれば良いという教えではありません。
では中道的な人生修行とはどのようなものであるかといえば八正道ということになるのでしょうが、正心法語で説かれている八正道の正見、縁起の理法で自分の過去の思いや行動を反省し、未来に対してはどのような種を蒔いて育てていくかという正見は、かなりの論理的思考と認識力を必要とする内容なので、仏教の奥の深さを感じながら『正心法語』をとなえています。
渡辺照宏氏の『仏教を知るために』という書物の中に「仏は一言をもって法を演説する。衆生、類にしたがって各、解することを得。」維摩経
の解説で、同じ仏陀の説法を聞いても聞く人によって理解するところが違う。美しい果実を見ることによって“自然はすばらしい”と感じる人もいるし、“盗んでやれ”という悪心をおこすものもあるかもしれない。“貧しい人に恵んでやろう”と思う人もいるであろう。
説法を聞いても、真理の書籍を読んでも、受け側によって天と地ほどの差があります。
仏陀の説法は、その人の心境や悩みに対して説かれます。良い教えをきいてそれを活用するのは、私たちの責任である。と述べています。仏陀は満月を指し示すが、見るか見ないかは各個人の問題ということだと思いますが、これは、現代でも言えることで、同じように説法を聞いていてもどのように理解しているかは各人の認識によって違っているであろうし、同じ内容を聞いても知覚内容が違ってくれば行動の違いとして現れてきます。
毎日の生活の中で自分を追い込んでも行けないし、適当にその日その日を暮らしてもいけないのでしょう。また、学んだ教えをどのように伝えていくかが、自分を含めて各人の修行課題だと思うので毎日考えながら、行動にあらわしていきたいと考えています。
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