2014年06月14日

さわやかに朗らかに生きるには

さわやかに朗らかに生きるには

自分の悩みが他人にはわからないのと同じように、自分もまた、他の人の苦しみや悲しみを相手の外見から判断するのは難しいものです。

しかし、他の人の苦しみや悲しみを理解できる人、理解しようとする人は、おそらく自分自身が過去の人生で苦しみや悲しみに耐えてきた人であると自分は考えます。

苦しみの原因は個人によっていろいろあると思いますが、一般的にあてはまるであろう原因は、未来に対しての心配事と、過去の失敗に対しての心の傷ではないかと思います。

私も過去の仕事上の失敗や人間関係をいつまでも悩んでいるタイプの人間で、過ぎたことをくよくよと現在起きた事件のごとく悩んでいました。

ただ過去は変えることはできませんので、自分に間違いがあったならば、もう素直になって反省する以外にありません。
未来に対しては自分の努力の範囲で変えていける可能性があります。

さわやかに朗らかに生きていくにはどうすれば良いのか、自分もまだ人様に言える程、さわやかに朗らかに生きているかどうか疑問ですが、そのように生きようと決意し努力していることは間違いがないので、話す資格はあるのではないかと思います。

朗(ほが)らかに生きるためには、「朗らかに生きよう」と努力すること、決意することから出発していけばよいと思います。と教わっています。

しかし、さわやかに朗らかに生きようと思って生きられるなら、それほど苦労がないわけで、内気な自分にはとても無理ではないかと考えてしまうものです。

ここで潜在意識について考えてみます。人間は10〜20パーセントは表面意識で物事を判断していますが、更に深いところに潜在意識といわれる無意識の領域があるといわれています。
この潜在意識という畑にどのような種を蒔くかによって人生が大きく変わるのではないかと思います。

ジェームズ・アレンは、「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」といわれています。どのような意味が含まれているのでしょうか。

人間は思うこと、正確に言えば思い続けること、持続する思いは潜在意識という領域に種を蒔いて育てていることと同じであると言えるのではないかと思います。
その蒔いた種が幸福の種なら、幸福な未来が時間の経過と共に形作られると考えられます。
しかし、蒔いた種が毒麦の種であったらどのようになるのでしょうか。自分の身体に悪い食べ物を食べれば日々、身体が弱っていくのと同じように、心で思う持続イメージが自分や他人を苦しめる内容であるならば、明るい未来を開くことはできないでしょうし、さわやかに朗らかに生きていきたいと思う自分自身が目指すべき方向とは逆に進んでいることになります。

潜在意識は、相手に対して思ったことであろうと、自分自身に対して思ったことであろうと、思っていることそれ自体を実現してしまう力があります。

相手に対して悪しき思いを描いたということは、潜在意識にとっては相手や自分に関係がなく、その悪しき思いを実現しようと働きだすので、思いに対する結果が自分に跳ね返ってきて、報いをうけることになります。
仏教的には、因・縁・果・報と言われていますが、蒔いた種は自分が刈りとる仕組みが宇宙の法則として有ると考えられます。
人を呪えば、それは自分を呪っているのと同じであると言えます。

逆に、相手に対して優しい気持ちになることができた、自分自身を努力して変えようとした、そのような思いも、継続的に努力して思うことができるようになれば、相手に対して優しく思うことができるその思いは潜在意識に蒔かれて、環境や自分自身の性格も変わっていくのでしょう。

思いは自然のままの状態にしておくと、どうしても他人を悪く見たり、嫉妬したり、環境の責任にしたくなります。それは自分でも経験することなので、なかなか天使のような心の状態で生きていくことは難しいのはよくわかっているつもりです。
しかし、相手に優しくしよう、弱い自分を克服しようと努力するなかに、やがて、さわやかに朗らかに生きている自分が見つかるような気がします。


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posted by ガンちゃん at 00:02 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月07日

旧約聖書の神について

旧約聖書の神について

旧約聖書の歴史をあらためて読んでみますと、神との契約と裁きが中心なのかと思えます。(旧約聖書は膨大なので部分的に読んでのことですが)

創世記のノアの箱舟では、ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤフェトを得ましたが、この頃地上では人が溢れ人々はこぞって、悪事を企み、悪事を行っていた状況でした。神はそれを見て、「私は、お前とその一族を除いて、これらの出来損ない達の生のすべてを断とうと思う。お前は、大きな箱舟を作り、妻や子供と共に、そこに入れ、すべての命あるのも、それぞれつがいで舟に入れ、それらと共に生き延びよ。私はこの地に洪水をおこし、すべての生の根を絶やす」
と言って四十日と四十夜、絶え間なく雨が降り注いで、地に生きた生命は途絶えたと有りますから、ノアと家族、対の動物たちを残して全滅したということでしょうか。
日本の神も怒りを雨や嵐で人類に警告しますが、ノアの箱舟は何かの象徴なのかどうかわかりませんが、すべてを全滅させてしまったという点で、裁きの神という感じをうけます。
愛の神とはちょっと違うかなという感じがします。

バベルの塔の話も有名ですが、当時は言葉が一種類であったので人々はみな、同じ言葉を使い意思の疎通ができていました。シンアルの広野に住み着いた一部の人々が「レンガを積んで天まで届く塔をたて、われ等の名前を高めよう」ということで、塔を高くしていきましたが、神はその様子をみてお怒りになり「一つの言葉しか待たぬ、一つの民だから、こんな物を建て自分達の考えを際限なく推し進めようとするのだ。言葉を混乱させよう」ということで塔の建設は止まり、彼らは地に散って行きました。
言葉が混乱したという箇所が自分的にはひっかかるのですが、これも神の裁きになるのでしょう。

ソドムとゴモラの話では、神の使いが悪評高いソドムとゴモラの実情を自ら偵察に行くことを告げ、風評通りなら街を滅ぼそうとします。
ソドムには甥のロトの家族もおり、アブラハムは必死でとりなしを試みます。しかし、街に十人?善良な人達がいれば赦そうといわれます。
しかし、神の使いはロトに、妻と二人の娘を連れて、夜のうちに、天罰を加える前に、早々に街から逃げるように言います。
「命ある限り逃げよ。しかし、決して、後ろを振り向いてはいけない。」といわれます。
神はソドムとゴモラの街の上に火の雨を降らし、すべてを焼き尽くした。思わず炎の街を振り返り見た妻は、そのまま、塩の柱に変わり果ててしまった。とありますが、あらためて読んでみると、似たような話が二つあります。

ギリシャ神話ですが、オルフェウスはギリシャ一の音楽の名手で、ある時、森の木の妖精エウリディケを愛し妻にします。しかし、死が美しい妻を奪い去ってしまいます。オルフェウスは悲しみのあまり彼女の後を慕って黄泉の国に行く決心をします。冥土の渡し守も地獄の番犬もオルフェウスの琴の音に魅せられて誰も彼の進路を拒めません。やがてオルフェウスは冥土の神ハデスの前にたって今一度、妻を返して下さいと涙ながらに訴えます。心うたれた神は特別に願いを聞き届けることにしました。
ただし条件が一つ
「地上をでるまで妻を振り返ってはならぬ」と告げます。冥土の神はオルフェウスの手をエウリディケに握らせます。オルフェウスは妻の手を引いて冥土の道を引き返しました。しかし、地上までの道のりは来た時よりも長く暗く感じられ、おまけに妻の手の頼りない感触にオルフェウスは不安になります。妻の名前を呼んでも返事がなく気配すら感じられません。やがて地上の光が穴の口からほのかに射しこんできた時、嬉しさと不安で我慢できなくなったオルフェウスは、思わず後ろを振り返ります。
すると彼が一瞬、垣間見たものは、妻の悲しげな表情でした。エウリディケは再び黄泉の国に引き戻されてしまいます。
ロトの妻もオルフェウスも後ろを振り返らないように言われていましたが、振り返ってしまいます。
何かの象徴のでしょうか。

また、出口王仁三郎も火の雨が降るというような予言をして弾圧されたと思いますが、実際にソドムとゴモラに降った火の雨とは何だったのだろうか、宇宙人と何か関係があるのか知りたい気がします。
また、エリアがバアルの預言者達とカルメル山で対決した時のことを思いだします。

バアルの神側につく人達は朝から昼までバアルの名を呼んで、「バアルよ、答えて下さい」と言ったが、返答なしでしたので、彼らは自分達の造った祭壇のまわりを踊っていました。
しかし、預言者エリアは主よ、私に答えて下さいと言うと、その時、主の火が下って燔祭と、たきぎと石と、ちりを焼き尽くしたと、書かれています。
似ている場面があると感じますが、同じ神でしょうか。

また、ある日アブラハムは、「アブラハム、アブラハム」と自分の名前を呼ぶ神の声を聞きます。
その神はいきなりアブラハムに、「おまえの愛する一人息子イサクを、モリアの地に連れていけ。そして私が示す山に登り、イサクを、焼きつくして私に捧げよ」と命じます。
アブラハムは言われた通りイサクを連れていきます。
そしてついに神が此処としめした所までくると、アブラハムはわが子イサクを殺めようとしたその時、「アブラハム、アブラハム」という神の声がして「もうよい。これで良く判った。お前が、ひとえに、私の為に、我が子をすら赦さず惜しまぬ者であることが。」
ここで神?はアブラハムを試しています。

試すといえばイエス様もサタンに試されています。
イエス様が空腹なのをみて「おまえがもし神の子だというのであれば、この石をパンにかえて食べたらどうだ」といやらしく問いかけてきます。
イエス様は、『人はパンだけで生きるのではなく、神が言うあらゆることで生きる』と切り返しています。

エローヒムの神であれば、アブラハムにしたような試しはしないのではないかと思います。

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posted by ガンちゃん at 22:42 | Comment(2) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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