2014年06月22日

世界の根源にある神の法

世界の根源にある神の法

神の法を地上において具現化する使命を担うのは宗教と哲学であると考えられます。
これは、宗教の対象と哲学の対象がともに絶対者(仏神)であり、その把捉の手段が宗教は表象であるのに対して、哲学は思惟によって絶対者に到達しようとする違いだけです。

本来、人間の本質は宗教的であり、人間が人間として尊い存在とされるのは、目に見えない神の存在を信じ、その教えを理解し行動するところに人間としての価値を見出すことができるのではないかと思います。
しかし、宗教や哲学といってもその内容において段階があるということも認めなければならないと思います。
ヘーゲルは「自然宗教」から「精神的個性の宗教」へ概念的発展があり、絶対宗教として啓示宗教であるキリスト教について分析しています。
自然のままでありがたいとする自然崇拝的な宗教は、高度な宗教とはいえず、世界的宗教には高度な教えがあるといわれています。その教えを学び実践することで個人としての精神が向上し、死後、天国に変えることができるが、教えを学ぼうとせず、地上的な欲望のままに生きたならば、死後、地獄に落ちることを教えています。霊界には大きく分けて天国と地獄があり、善と悪が明確に分かれているといわれています。その霊的世界における善悪を知らずに地上で生きているということは極めて危険を伴うということです。
霊的世界における正しい価値基準は、地上的な価値基準から判断すると、わりにあわないと思われることもあるかもしれません。しかし、地上的には損得からいって損であっても、霊的な価値基準に照らして自分の人生を生きることが魂の向上につながり、徳というものが備わるのでしょう。

世界宗教の教えには時代や地域を超えた普遍性があります。
ヘーゲルは宗教と哲学は同じ内容をもち、哲学は宗教の内容を思惟の形式において提示するだけであり、この見かけの対立を克服するかぎり、「哲学は神学である」と結論付けていたと思います。

洋の東西を問わず似ている思想があると思えます。それは真実の法は普遍だからでしょう。
ヘラクレイトスの万物は流転するという言葉は有名ですが、存在に関してこのように述べています。
「存在は非存以上の存在ではなく、非存在とおなじく存在しない。存在と無はおなじものであり、本質は変化である。真理は対立物の統一としてしか存在しない。」一切は流れる。なにものも存続せず、おなじままということはない。

へーゲルも大論理学で以下のように述べています。
「ある」は「ない」。「ない」は「ある」と同じである。「ある」と「ない」は同じである。しかし、本当は「ある」は「ない」に、また逆に「ない」は「ある」に移ってしまっており、両者は絶対に区別されるが、しかし分離できない。この意味で、それぞれは他方において「消滅する運動」であって本当は「なる」なのである。と書かれています。
ヘラクレイトスは、一だけがあり、他の一切はこの一が形を変え、変化し加工されてものである。この一以外の一切は、ながれ固定せず、自分をもちこたえない。つまり、真実は「なる」であって「ある」ではない。
ヘラクレイトスがいう「一」だけがありというところを、プラトン的に理念として置き換えてもいいかもしれません。

月は、海や湖面、川などにうつしだされますが、月それ自体は一つであり、まずは理念があり地上的には多様な現れ方をするということです。

世界は常に変化の中にあると言えます。有と無はコインの表と裏の関係で完全に切り離すことができず、消滅と誕生を繰り返しているのでしょう。すべてが相互回帰的に循環しながら、流動しています。

この三次元物質世界は生々流転の法則に支配されています。すべての存在は変転の時間を内包し静止した存在は有りないと言うことなのでしょう。
上記で述べましたが、ヘラクレイトスは、この世界に存在するすべてのものは、一瞬たりとも静止していることはなく、絶えず生成と消滅を繰り返していると主張しました。「諸君は同じ河に2度足を踏み入れることはできない。なぜなら新しい河水が、絶え間なく諸君に押し寄せてくるからだ。」この世界に恒常的なものは何もないと世界の本質を見抜いたのでしょう。

逆に考えるならば、変転変化するからこそ存在があるといえます。すべての存在は変転を前提として有ることがゆるされているといえます。太陽の法 参照

時間の流れのなかで流転する存在の背後に、永遠に変化しない何かがあります。その何かとは、仏教的には「色即是空・空即是色」という言葉の意味なのでしょう。
変化の背景にある不変なるものの実在、普遍的なる存在が投映されて、流転するこの世的存在になっていることを見抜いた真理の言葉です。

三次元的な物質世界は霊的世界から流れ出た影の世界であり、この幻の世界の中にあって、霊界世界の真実や人間の本質である魂ついてどれだけ認識できるかが、真実の宗教や哲学のめざす方向性だと思います。神の法とは霊的世界に真実を解き明かす教えだと考えます。


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posted by ガンちゃん at 10:38 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月18日

美しさの根源にあるもの

美しさの根源にあるもの

美しさを含む芸術の根源にあるのは、天上界にある美しさ、プラトン的には美しさの理念が、地上的な物質的形態をとって、感性に訴えかける表現形式と言えると思います。

総裁先生は芸術について以下のように述べられています。
「芸術というのは宗教に極めて近いもので、実は、神の言葉を書き言葉以外で表現するものが芸術だというふうに、私は考えております。」

またヘーゲルも同じ意味に受け取ることが可能であると思いますが、以下のように宗教や芸術、哲学の関係を述べられています。
「芸術は、宗教や哲学と同じく神的なものを意識にもたらすものであり、ただ、宗教は表象を、哲学が思惟を用いるのに対して、芸術は感性的直観を用いる点で異なっているとする。すなわち、人は感性的対象としての芸術作品において神的なものを看守する」


現代に芸術と言われ評価されているものには、天上界にある霊的美しさを表現しているとは思えないものも、あるように感じられます。
地獄といわれる世界は、闘争と殺戮が繰り返され、力によって人々を支配しようとする世界ですので、地獄に住む人達は、音楽を聴き、詩を読んだり絵画を観て楽しんだりという心の余裕がありません。

闘争や破壊は神の御心からは反対に位置していますので、その世界から本当の意味における美を表現できるインスピレーションは降りてくることはないはずです。

また、地上に住んでいる人間側が、芸術を技術的知識的にのみ学習したとします。しかし、その人が人間性において善なるものが理解できず、愛というものを考えたことがない心的傾向があるとするならば、人を感動させることはできないでしょう。
逆にそのような人に降りてくるインスピレーションは地獄界からのものであり、地上的に学んだ表面的な技術のみでそれなりに、絵を描いたり音楽を作曲したりするかもしれませんが、それは人々の心の中に神的なものを看守させることはないでしょう。

ギリシャ的愛の精神とは、単に人を愛するのみではなく、愛の中に美があり、愛の中に知があると言われています。
真実の美は神の愛であり、真実の真理を内包した知もまた神の愛であると思えます。

宗教、哲学、芸術も目指すべき方向性は神の御心を地上において具現化することであり、宗教は悟性を哲学は理性を、芸術は感性的直観を通して神の世界を地上に人に広めていると思います。

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posted by ガンちゃん at 21:57 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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