未来を考えるにあたって、個人及び人類を不幸にするものとは何かを考えてみますと一つは邪教団の存在です。その宗教が正しい宗教なのか、間違った宗教なのかを見分ける一つの判断基準は、その宗教が広がった時にどうなるかを縁起の理法で観察する方法があります。
例えば、南無妙法蓮華経を一日に、何百回、何千回と唱えることが仏法であるという宗教団体が日本には多いように感じますが、人間が霊的存在であり、魂の進化と他の人を幸せにする義務があるとするならば、普通に考えても『南無妙法蓮華経』を何万回と唱えても、あまり魂の向上には役立たないと思えます。
しかし、地上において三次元という物質世界においては、原因と結果が必ずしも一致していない場合があるようにみえるときがあります。
よい原因をつくったにもかかわらず、悪い結果が現れ、悪い原因をつくっているのに、よい結果が現れているかのように見える場合がありますが、これを「異熟」といい、その結果を「異熟果」といいます。
表面的にみれば因果関係が成立していないように感じられますが、正しい真理知識に照らして考えてみますと、人間の本質は霊的な存在であり、地上は諸行無常、諸法無我といわれているように変転変化する仮の世界でありますから、いつか肉体に宿っている魂は、肉体という殻をぬけだして本来の世界に帰ることになります。その本来の世界では地上において思ったことや行為に対して、間違いなく判定が下されると教わっています。
霊的世界にもどって初めて、因果関係が本当の意味で成立します。正しく生きた人は天上界に帰り、偽りの人生を生きた人は地獄におもむくことになるかもしれません。
智慧をもとめる宗教、みかえりを求めない、愛の本質を説く宗教は正しい宗教であると思います。
もう一つの悪とは何かと考えてみますとやはり、唯物論的思想に基づいた社会および国家ということになるのでしょう。
霊言集にも登場しましたが、19世紀のマルクスという人がいました。現在にも影響があるのでしょうが、「宗教はアヘンである」と言い放った人物です。
しかし、宗教を否定した、宗教を追い出した後に現れたのは何であったかと歴史を振り返ってみますと、大量の粛清であり、また弾圧であったはずです。
唯物論とは結局、人間機械論であり、唯脳論であり、人生をこの世限りだという閉じた世界観です。
霊的世界の恐ろしさを、あの世の恐ろしさを知らない人達が、人間を殺しても何の罪悪感もなく、怖さを感じないのでしょう。
正しい宗教、幸福の科学の教えが広がることで、この二つの悪、「邪教」と「唯物論」を駆逐する、人類の未来の希望だと信じます。
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