キリスト教は未来に残すべきではない宗教ということで、長々とコメントを下さった方がいらっしゃいましたが、それに対して私なりの主観的な意見を述べてみます。
長すぎて意味がよくつかめなかったのですが、だいたい以下の内容でしょうか。
「キリスト教の神は裁きの神である。歴史を振り返ってみて政治とキリスト教が一体となって侵略行為が行われてきた。」
だいたい以上の理由でキリスト教は未来に残してはいけない宗教という結論を出されたのでしょうか。
私の反論ですが、聖書には旧約聖書と新約聖書がありますが、裁きの神は旧約聖書に登場する神で、旧約はユダヤ教であり、民族宗教です。
新約聖書の福音書こそがイエス様の教えであり、イエス様を霊天上界から指導されていた神は、愛の神であった。その証拠は、イエス様の教えは愛の教えであるからです。
福音書のどこを読んでも、イエス様が裁いている様子は伺えません。
『汝の敵を愛し、迫害するものの為に祈れ。〜天の父は、悪い者の上にも、良い者の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。』と述べられています。
この言葉には、すべての人間は神や仏の慈悲の光をうけとることができるという点で平等に愛されていると考えることができます。
しかし反面ではこのような言葉も残されています。
『狭き門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者は多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。』
すべての人は神仏から平等に愛されていますが、自分の人生をどのように生きてきたのかによって天国の門を通ることができるかどうか公平に判定されるのでしょう。
命とは、人間の本質である霊性、魂のことであり、人間の本質を見出す人は現代も、2000年前も少ないのでしょう。
滅びに至る門は大きく、そこから入って行く者は多いとは、人間は肉体がすべてという唯物論的な考えで肉体に基づく欲望のままに生きている人は、滅びの門の前に立っているということかなと思います。
感覚器官では確認できませんので、信じるかどうかの判断は、最終的には自分自身によりますが、真理を深く探求するほど、人間機械論的な考えは間違えであると確信できるのではないでしょうか。
上記の理由により、キリスト教の神は裁きの神ではなく、愛の神であり、時代が下って、領土拡大と布教が一体化した侵略的行為はイエス様の本意ではなかったということです。
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