2014年04月28日

仏教シリーズその2 仏教的認識論・十八界の思想と無常観

仏教的認識論・十八界の思想と無常観

人間が地上で肉体に宿って生活するとき、その生活の出発点は肉体の感覚器官から発生します。
第一に眼です。眼から入ってくる情報は対象を認識するにあたって、かなりの割合を占めると思います。しかし、眼から入ってくるその情報が正確なものかどうか定かではありません。対象を認識するにあたって、眼の機能に依存した見方になりますので、事物の本質をうつしているとはいえません。同じ対象を観察したとしても見え方はそれぞれ違った見方をしていると思います。その結果、やはり知覚内容が人それぞれ違うのではないかと考えられます。仮に視覚的に同じような見え方をしたとしても視覚による知覚内容が違うということは同じものを見ているとは言えないと考えます。

次に、耳です。人間の耳はある一定の周波数の幅を、音として確認することができますが、人間が聞き取ることができない周波数の音を聞いている動物もいると思います。音もやはり耳の機能に依存した一定の範囲内でしか聞き取ることができません。

次に鼻ですが、これも同じ人間であっても男性と女性では臭いの感じ方が違うようです。ある種の臭いに対して男性は何も感じることがない場合もありますが、女性には我慢できないということがありますので、鼻に関しても臭いに対する感じ方はいろいろです。

次に舌です。これも舌そのものの機能は人によって、そんなに変わらないと思いますが、辛い食べ物が好きな方もいれば、甘いものが好きな人、嫌いな人、人それぞれです。甘さだけをとっても甘すぎると感じる人がいる一方で、そうでもないと感じる人がいますので、舌の感じ方、感覚も人それぞれです。

次に身です。神経を通して皮膚はいろいろな感覚を持っています。これも皮膚の感覚機能自体は人間であればそれほど大差はないと思いますが、暑がりの人、寒がりの人、肌が敏感な人とそうでない人がいるのでもわかるように、皮膚の感覚も個人によって受け止め方が違うと思います。

最後に意です。この意に関しては宗教の中で語られているような奥深いものでなく、五感から集められた情報を判断している頭脳に当たる働きと考えていいと思います。
以上が「眼・耳・鼻・舌・身・意」に関しての説明です。
六つの感覚器官を六根と言います。

次に六境(六つの対象)とは、先ほどの感覚器官に対応するもの、その感覚の対象となるものです。
眼に対応するものは「色」です。眼を通して色彩などを感じ取ります。
次に「声」です。音や音楽を聞くことで、それに対して快・不快を感じることがあります。
「香」は香りを感じ取ります。
つぎに「味」です。舌で感じとるものは味わいです。
身体で感じとるものは「触」です。いろんな感触を感じ取ります。
次に「意」です。意の部分で感じるものは、法です。法は、概念や観念といった抽象的な言葉で語られるものです。

このように「眼・耳・鼻・舌・身・意」という感覚器官の対象を「色・声・香・味・触・法」と言います。これを認識の対象領域という意味で六境といいます。

また、六識(六つの認識)とは、肉体に基づく感覚器官とその対象の間の関係をどのように認識するかということです。
「眼識」は対象を眼で確認して、それが何であるかを判断します。
「耳識」は耳に入ってくる音や音楽を聞きながら、クラシック音楽は素晴らしくて好きだなと感じる、あるいは雑音がうるさいとか感じとります。
これ以外に「鼻識」「舌識」「身識」また心のほうで「意識」が出てきます。

「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六つの感覚器官(六根)が「色・声・香・味・触・法」という六つの対象(六境)を感じ取り「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」という六つの認識(六識)を生じます。
この18個をあわせて十八界と言います。
感覚器官とその対象の間での関係をどう判断するかという認識が生じます。人間の認識といっても突き詰めて考えると十八界によって世界認識をしていると仏教では教えています。


仏教的世界観には無常観があります。
無常とは、諸現象がつねに変化してやまないこと、生滅を繰り返すことです。時間的持続性がないこと<刹那滅>。を言います。
このようにつねに、変転変化しながら生滅を繰り返す存在に、永遠不滅の本体、固定的実体(我・アートマン)はありません。無我(アナートマン)といわなければなりません。
ここでいう無我とは、自分がという自我の思いを否定する教えという意味ではなく、変化しない持続的、固定的、自からなる性質を有するものは無いという意味の無我です。

ただ、縁によって現象するのみです。あるいは相関的・相対的存在にすぎません。
かくて無常・無我<諸行・諸法>とは縁によって生起したものです。大乗仏典 参照

肉体に基づく感覚器官の性質・機能に依存した自己認識、世界認識は真実の世界観を教えてくれません。感覚的なものは無常であって、滅びを内包していますので、それに執着をすると苦しみの原因になると仏教は教えています。



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2014年04月27日

仏教シリーズその1 四諦八正道と一念三千論 

四諦八正道と一念三千論 

一念三千について考えてみます。
一念三千論は心の法則性が考え方の基礎にあります。霊界での物理的法則、波長同通の法則と言い換えてもいいかもしれません。人間の心は常に右に揺れ左に揺れ動きます。その思う方向が善か悪かによって天国や地獄に通じてしまいます。それゆえに、八正道という正しい価値基準から自分の心のあり方や行動をチャックし中道に戻るように軌道修正(反省)しましょうというのが八正道の意味だと理解しています。
最初に天台智の一念三千論を考えながら仏陀の四諦八正道との関係を考えてみたいと思います。

一念三千論
法華経を勉強するにあたって大切な考え方として十如是があります。
十如是とは、「如是相」・「如是性」・「如是体」・「如是力」・「如是作」・「如是因」・「如是縁」・「如是果」・「如是報」・「如是本末究竟等」の十個がありまして、この世のあらゆるものはこの十種類をみれば違いが分かるということです。
以下の説明をしてみます。
如是相とは、外に現れる様相、外見であります。優しそうだとか怖い感じがするだとかそのような外見です。
如是性とは、その人に備わった性質、性格であります。勤勉であるとか努力家であるとか、その人の性格を表しています。
如是体とは、どんな体、体つきでしょうか。スポーツ向きの体型なのか、やせ型か標準タイプか肥満型なのか、体型等の違いです。
如是力とは、潜在能力で、どのような潜在的な力を持っているのでしょうか。
如是作とは、それが外に対して現れる作用、どんな作用を表していますか。
如是因とは、ものの生起を導く直接原因で、その人はどのような原因行為をしていますか。
如是縁とは、その原因行為を補助するための条件。
如是果とは、原因と条件によって導かれた結果。
如是報とは、その結果に対しての報い。
如是本末究竟等とは、如是相から如是報までを見ながら全体的にどうですか、すべてが関係しあっています。
この十種類を観察することで、あなたはこのような人です。あるいは他の人とのちがいがわかるという考えです。
さらに、十界互具説という教えがあり、人間が地上に生まれてくる前にいた霊的世界があります。
「地獄」・「餓鬼」・「畜生」・「阿修羅」・「人間」・「天上」・「声聞」・「縁覚」・「菩薩」・「仏」の十個の世界に分類します。
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六道が欲界の世界であり、欲望から十分に逃れていない人間が転生する世界という考えです。
感情のままに怒りまくれば「地獄」に通じます。また、ある物に対して強い執着を持てば「餓鬼」に通じます。人間の尊厳を忘れ、肉体に基づく欲望のままに生きれば「畜生」の世界に入り、闘争と破壊に生きれば「阿修羅」になります。「人間」とは一般的な平均的人間で、「天上」はちょっとすぐれた人間を現わしていると考えます。「声聞」は仏陀の説法を聞いて勉強している人で「縁覚」は独りで修行を続けているような人です。「菩薩」は人助けや人を救うことに邁進しているような人です。
そして、菩薩の五十二段界を超えたら「仏」になれます。

このどこかの世界に、自分自身の魂の出自があるという考えですが、この十種類の心の在り方は、地上に生まれてきた人間も十種類の思いを出すことができます。
菩薩の心であったとしても、何かのきっかけで怒りがこみあげてくれば、やはり心境は地獄に通じてしまいます。また、菩薩の行為をするといっても、菩薩が菩薩の行為をするのと、仏が菩薩の行為をするのと、地獄から抜け出してやっと霊界に帰ることができた人が瞬間的に菩薩の行為をするのでは、やはり違いがあると思われます。
現在の表面的な思いだけで判断するのではなく、裏側も含め両面から確認していく考え方です。
もともとあの世の素性が十種類あり、この地上に出てからの心境に十種類。十種類の人がそれぞれに十種類の心の出し方ができるので十界掛ける十界で百界となります。
この百種類の心境に十如是の思想を掛け合わせると、百界掛ける十如是で千になり、これを「百界千如」といいます。

さらに人間が百種類の心をだす、活動の場として、三種類の世界「三種世間」があります。
一番目は「衆生世間」で人間の世界です。老若男女の違いでも、物事のとらえ方、考え方が違うであろうし、20代と40代でも認識の仕方が違うと思います。学生と社会人でも、同じ人間社会にいながら考え方はずいぶん違うと考えます。
二番目は「五陰世間」です。人間を作っている要素を五陰といって「色」・「受」・「想」・「行」・「識」です。「色」は肉体で、「受」は感受作用、「想」は想い、イメージ。「行」は行為をするための意思であり、「識」は認識力の識です。
このどの部分を使うかによって対象に対しての知覚が違ってくると考えます。仏陀と一般の弟子では同じ対象を観察してみても認識力が天と地ほどにあるので全く違うとらえ方をしていると思います。
三番目は「国土世間」です。共産主義の国と自由の国、独裁政権の国ではやはり物事の考え方が違うであろうし、日本やアメリカ、フランスの違いによっても物事のとらえ方や考え方が全然違うと思いますし、文化や教育も違ったものであると思います。それゆえに物事に対しての認識の仕方も違ってきます。

「百界千如」に「三種世間」を掛けると「三千種世間」となり三千という数字が出てきます。
天台智は、このようなプロセスで一念三千論という思想を説かれたと自分は考えています。

天台智の摩訶止観には、三諦円融に関する内容が書かれています。

摩訶止観には、「如来は常に二諦(真諦と俗諦)によって法を説かれるのである」とあります。
龍樹・ナーガールジュナも、真理を世俗諦と第一義諦にわけ、その極端を否定した中道に真理はあるとする考え方であったと思います。
この世を肯定する実存主義的な立場を「有」とするならば、この世は変転変化し、他に依存しながら成り立っているので実在、実体を有しているといえません。これを「無」の立場とすらならば、この地上は「有」と「無」の両辺を離れた中道にこそ真実の正道があるとする考え方です。

常に地上は、対立・矛盾が発生しそれを一段上の段階で統一しながら発展してく弁証法的運動法則によって歴史が流れてきたのではないかと思います。(ヘーゲルの弁証法)

大乗仏典(中国・日本編) 摩訶止観より
「即空・即仮・即中であることを明らかにしよう。どうして即空なのかといえば、いずれも縁によって生じたものであり、縁生というのは核となり主となるものがない。主がないものは即空なのである。
どうして即仮なのかといえば、主がなくても生じてくるから仮なるものというのである。
どうして即中というのであるかといえば、法性のありようからはみだすことがないものは、すべて即中というものであるからである。」と述べられています。

三諦円融についてもまとめてみますと以下のような思想であると思います。
空諦とは、すべては固定的なものはなく、一定の時間の幅なかで存在があるように見えますが、それは流れゆく一瞬を見ているだけなのであって、永遠に存在が続いていくものではありません。すべては、原因や条件に依存して存在しているのであり、それ自体で存在があり続けるものはありません。それゆえにすべてのものは空であるといいます。しかし、地上にあるものが「空」だからといって、地上的な生き方をないがしろにしてはいけない。次なる真実が仮諦、仮の真実。人間の魂が地上に生まれてくるのは偶然でなく、地上的な経験を通して魂を磨きながらその過程で、地上ユートピアをつくるという使命が各人の課題として与えられています。ゆえにこの世は空であるからといって、否定すればよいというものではありません。仮諦という考え、実存主義的な考え方も地上を生きる上で大事な考えであります。しかし、仮諦に甘んじてしますと、霊的世界を忘れ、この世的な欲望や快楽に流されてしまうのが人間の弱さであります。
そこで仮諦をも否定しなくてはなりません。空諦と仮諦の両方を否定した中道にこそ、真実の人間として生きる道があると思います。
という内容が三諦円融であると自分は理解しています。

次に四諦八正道ですが、四諦とは「苦」・「集」・「滅」・「道」です。
苦とは、四苦八苦と言われています。
四苦は、生・老・病・死です。
老病死については、それ自体が苦しみの原因なので説明を省略しますが、「生」について少し説明しますと、人間の本質は霊であり、その人にふさわしい周期で、地上という物質世界に生まれ変わってきます。
霊界においては、大人以上に自由自在で、思えば念の力に応じて自己実現できる世界です。衣食住の心配もなく、お金がなくて路頭に迷う心配もありません。そのような意味では自由な霊存在が、肉体に宿って生まれ変わってくることは一つの試練といわれています。
地上に生まれてくる目的は、その時代を生きることで魂の経験値を増やし、認識を広げることで少しでも仏に近づく為です。
仏に近づくことじたいが、その人の魂の喜びだからです。

八苦は「愛別離苦」愛する人との別れ。「怨憎会苦」嫌な人と会う苦しみ。「求不得苦」求めても得られない苦しみ。「五陰盛苦」は肉体の煩悩が燃え盛る苦しみです。

「集」とは苦しみの原因を追及すること、あるいは、原因を集めることです。
「滅」とは、苦しみの原因を突き止めたなら、その原因をとり除こうとする決意、取り除こうとする意志を固めることです。
「道」とは、八正道です。
八正道は、自分自身の見方(縁起の理法で苦しみの原因や行為を振り返る)や心の統御、発する言葉などを正しい仏法真理の価値基準から見直して修正をかけ中道に戻る道だと思えます。

時代的には、お釈迦様の時代に説かれた八正道が先で、天台智の一念三千論は後になりますが、霊天上界において仏陀が天台智に霊指導、霊示をおろしたということです。
現在、久遠の仏陀は大川隆法総裁という肉体に宿られて、法をお説きくださっていますが、過去世が仏陀であられる主は、霊天上界において地上に降りた光の天使達に霊指導されています。

地上的な時代順にみれば、八正道の後に中国で一念三千論が説かれていますが、それは仏陀の時代から天上界に帰られた仏陀が、天台智に霊指導されたその内容が、一念三千論として結実したということだと思います。



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posted by ガンちゃん at 22:37 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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