正義とは、かなり理性的な面があると思います。悪を粉砕するという正義の側面が強く出てきますと、多少、手荒い部分がでてくることがあります。それは正義というものがかなり、結果を重視しているからです。もし、正義の実現のための戦いであったとしても、その戦いに負けてしまったら、歴史的にはただの反乱軍で終わってしまうかもしれません。
それゆえに、正義の実現にはかなり結果が重視されると考えられます。
悪は滅びるべきであり、正義はこの地上において実現されるべきであるという結論がはっきりしていますので、理性的な感じがします。
理性的な人は、善悪を比較してすぐに判断し結論を出しますので、躊躇せずに行動に転化します。
それに対して愛とは、どちらかといえば感性に近い部分があるかもしれません。
正義が理性的であり、結果を重視するのに対して、愛は動機のほうにウエイトがあると考えられます。どのような心でその行為を行うのか、あるいはどのような動機で戦いをするのか、その過程が重視されます。正義が理性的、合理的に物事を判断し結論を出すのに対して、愛は、結果よりはどのような気持ちで、あるいは動機でその行為を為すかが重視される、そのような違いがあると思えます。
ヘルメスは軍事的な英雄であると教わっていますが、その出発的において愛があったと教わっています。
それゆえに、神の七色光線でいうところの赤色光線とは違う点があったと言えると思います。
キリスト教的な愛とはどのようなものでしょうか。私なりに聖書を読み返してみますと、キリスト教的な愛の発展段階説が説かれているのではないかと思います。
もちろん幸福の科学のような法体系的に、あるいは理論的な形でまとめられているわけではありませんが、福音書に書かれている愛の教えには、プロとしての愛の教えと、在家が実践すべき愛の教えとがあると考えることができます。
福音書には、律法学者が来て、イエス様に質問します。全ての戒めの中で、どれが第一のものですか。という問いに、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。
第二に、自分を愛するように隣人を愛せよ。』とあります。
この第二の、自分を愛するように隣人を愛せよとは、当然自分が関心を持ってしかるべき人で、愛の発展段階説でいえば、5次元的な愛する愛に通じる教えであると考えます。
ルカによる福音書の記述に次のような例え話がある。
『盲人は盲人の手引きができようか。二人とも、穴に落ち込まないであろうか。
弟子はその師以上のものでないが、修行をつめば、みな、その師のようになろう』とありますがこれは、6次元的愛に対応するのではないでしょうか。まず、自分自身の自己確立をなし、それから多くの人を真理の道に誘う。真理を伝えることができるのは、勉強をした人であって、勉強をしない、なまけ者は人を導くことができません。これを盲人の例えで、説明していると思います。
更に、『汝の敵を愛し、迫害するものの為に祈れ。〜天の父は、悪い者の上にも、良い者の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくないもの者にも、雨を降らして下さるからである。』とありますが、これは、愛の発展段階説で言うと、許す愛(7次元的な愛)に通じるのではないかと思います。
通常の常識からすれば、自分に対しての敵と思える人物を、愛し、その人のために祈りを捧げると言うことは、努力しても簡単にできる内容ではありません。
これは明らかにプロとしての修行課題であり、一般の群衆にできる内容の教えではないと思いますが、敵を愛する、許しなさいと言うことは宗教的な愛であり、天使の愛であると考えます。
もちろん、行為としての悪は正義と言う観点で正していくべきでありますが、敵を愛すると言うことは、広い意味で、自分に直接関係ない人をも愛しなさいと理解できますので、菩薩の愛であると思います。
上記で正義は理性的であり、愛はどちらかといえば感性的であると書きましたが、愛にも理論的理性的な愛の発展段階があり、愛にも正義と同じ理性的合理的な部分も含まれていると考えられます。
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