自分は出家者であり、あるいは世間一般の人よりは真理を学んでいるという思いが、自分自身を一段上の立場であると考える人がいるとしたなら、天使や仏はどのようにみるのでしょうか。
維摩経には、だいたい次のような意味の内容が書かれていたと思います。
菩薩に降りかかった花は、地に落ちましたが、大声聞たちに降りかかった花は身体にくっついて地面に落ちません。
神通力を振り絞ってこの花を地面に落そうとしても落ちません。そこで天女が大声聞に「その花を振り落としてなんになさるのですか」と質問します。
大声聞は、「天女よ、これらの花で飾ることは、出家の身に相応しくないことですから、取り去ろうとするのです」と答えます。
そこで天女は、「この花は法にかなっています。この花のほうでは考えたり分別したりしないのに、大声聞こそが思慮し分別するからです」と答えています。
花のほうでは出家者と在家者などと分別していません。この二つの世界を区別しているのは大声聞の判断(分別)であり思惟です。
自分は真理を何十年間も学んでいるので、他の信者さんや世間の人より高い立場に位置していると思っているとしたら、これは大変な慢心であります。
自分自身はそのように思っていないとしても、どこかに自惚れの心があれば、それは外に必ず表現されます。
人に対して根拠もないのに不当な批判をしたり、相手を引きずり降ろそうと考えたり、上から目線で命令口調的に発言したりします。本人は気付いていないかもしれませんが、まわりからみれば傲慢さがよくわかります。
自分は悟っていると思っていてもまわりの人達は、自惚れているようにしか見えません。必然的にまわりから評価されるわけがありませんから、自己の評価と世間の評価のギャップによって苦しみます。
仏教的な空の世界観が大切なのかなと思えてきます。
過去・現在・未来を通して恒常であり、それ自身として他のものに依存することなく自立的に存在する本体とは、人間の思惟の世界における概念としてしか存在しません。
現に存在するものは、各瞬間に変化する無常なものであり、他の多くのものを原因として、他のものに依存してのみ現象する、他律的なものであります。
空の世界観を深いところまで認識できなくても、知識として知っているだけで、慢心したり自惚れたりする気持ちを切り替えることができるような気がします。
仏典に書かれていたと思いますが、あらゆるものには本体がなく、その意味で、ものは空です。幻術師がつくり出した幻が、どれほど大きな光景であり、千変万化しようとも、本体としては存在しないのと同じであります。独自の性質を持たない無自性なものです。
ただ、真理を述べ伝えることは善か悪かで区別すれば、圧倒的な善であります。
仏典から引用すれば、「教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみに打ち勝つ。」と書かれています。
真理を伝えることは、すべてにおいて善であります。しかし、真理を伝えることが自分を飾る手段になってはいけないということです。
自分の例で言えば、以前、記事に書きましたが、何人かの顕正会のご婦人や創価学会の方と仏法についてお話をしたことがありますが、だいたいすべて失敗に終わっています。
原因は、顕正会も創価学会も日蓮宗の関係で、南無妙法蓮華経を唱えれば救われる程度の理解であろうから、幸福の科学の教えの方がよりすぐれているという気持ちが相手に伝わってしまったのかもしれません。
やはり、真理を伝えるにしても、伝える側の人間性が大切であると思い知らされた経験です。
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