正しい方向で認識力が高まるほど、神や仏を畏れるようになると思います。
それは、平易な言葉の中に宇宙の真理、普遍的法則が裏付けられているからです。知れば知るほど謙虚になるとは、このことを言うのではないかと思えます。
救世主や仏が地上という物質世界にお生まれになると、外的条件に縛られた肉体人間として生きていかれます。
私達の目にうつる姿は、普通の人間と変わりません。愚かな人間はその肉体の目でもって、自分と変わりないのではないかとうぬぼれ、主を軽んじて見るようになります。
聖書には「幸いなるかな、心の貧しい人」と述べられています。どのような人をさしているのでしょうか。おごり高ぶらない謙虚な人をさしている言葉であると思います。
使徒パウロは、高ぶった思いをいだかないで、むしろ畏れよと言っています。換言すれば、おごり高ぶってはいけないということなのでしょう。
謙虚な人とは柔和な人をさしている言葉であると理解しています。
認識力が深まり広がりはじめると、ニュートンのような謙虚な気持ち、おごり高ぶらない謙虚な心になるのでしょう。そのような人は、まわりから信仰心が大事であるといわれなくてもすでに主を信仰しているのです。
では、謙虚でないおごり高ぶった人間とはどのような特徴があるのでしょうか。
法を学んだとしても、自分にとって都合の良いところだけを部分的に学び、勝手な解釈を加え、自己の正当化に使います。
それゆえに、真理を正しく学んでいる信者とは、話が通じなくなり、まったく話が成立しません。
また、自分には信仰心があるとまわりの人にアピールし、自分はこれだけすごいのだと自慢話が永遠に続いていきます。
また、来てほしくないのに、いろんなところに出没して、相手の立場や話を聴こうともせず、自己主張していきます。本人は正義のつもりでいろいろ発言しているのかもしれませんが、周りは大変迷惑しているわけです。本人はそれすら気がつきません。
ハッキリ言って人間このようにはなりたくないなという感じがしますが、本人は自我が強い為、まわりの空気が読めません。
キリスト教父アウグスチヌスや他の偉大なキリスト教徒の言葉は、すべて飾らない謙虚さでいて、人生の教訓に満ちています。
信仰心とは主の偉大さを実感としてつかみ、その偉大さゆえに主を畏れるようになり、それが謙虚さにつながっていくのではないかと思います。その謙虚さが信仰心につながるものであると考えます。
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