はたして人間の一生に運命というものがあるのでしょうか。私は苦難や人生の諸問題に対しては、基本的に努力で乗り越えていきたいと考えるタイプの人間かなと思いますが、運命があるかないかと問われるなら「ある」と思います。
もちろん決定論としてあるわけでなく、基本的には自助努力と祈りによる他力で運命を切りひらいていきたいと考えていますが、人間には個性があり、魂の傾向性があるという意味で運命があると著書に書かれていたと思います。
人間には転生を通して、魂の傾向性というものを形成していきますので、悟りを開かれている人からみれば、その傾向性に基づいて5年後、10年後の未来がある程度、予想がつくのでしょう。
そのような意味で運命はあると思います。
しかし、私達はその運命を変える方法、あるいはのりこえる方法を教わっています。
法に基づいて自分自身の魂の傾向性を緻密に分析し、長所を伸ばし短所を補っていく、あるいは自分には無かった考え方を学び実践することで運命を変えることは可能であると考えます。
つまり今の自分はまだまだ未熟であり、謙虚な気持ちで常に良い方向に自分自身を変えていこうとする姿勢の中に、自分の運命を変えていける可能性があると思います。
そのためにも自分の過ちを素直の反省し、謙虚な気持ちを持ち続けることが大切であると思いますが、自分自身なかなかできるものではありませんが、常に意識することで少しでも自分を変えていける可能性がのこされているわけです。
総裁先生は「運命を知る」ということは、「天分を知る」ということであるし、「自分の分限を知る」ということでもある、と述べられています。
自分の能力や性格、体力などについて、その限界を知って生きている人を崩すことは、悪魔にとっても、なかなか難しいと述べられています。
自分の限度を知っている人、分限を知っている人を罠に陥れることは非常に難しいといわれています。
しかし、分限を知らない人を罠に陥れるのは逆に言いますと簡単だということです。
前方に穴を掘っておけば良いそうで、悪魔も、努力が要らないし、知力もいりません。真っすぐに進んで行って落ちくれますので、簡単だとのことです。
あまりにも単純に「自分の能力は無限界だ」と思っている人は、そのようになるそうです。
人間は可能性としては無限ですが、魂に傾向性があるために限界ができると警告されています。
また、他人からみた自分の姿を知ることも大切であるといわれています。
レオの記事でも、他の人から見た自分、という客観的な視点も持っていなければ、なかなか自分の真の姿はわからない。という内容が書かれていましたが、無限の可能性と限界についてあてはめて考えてみますと、人々の客観的な評価によって超えられない部分、限界が生じてくるのではないかと思えます。
限界とは、実際には自分が原因を作りだしているのかもしれませんが、その限界を画するものは、実は他の人の客観的な評価であるのです。
例えば、自分には限界などないと考えて、その考え方を元に記事を書いたとします。記事の内容があまりにもデタラメで、信用するに値しないような内容だとします。
初めは面白がって「ポチ」を押してくれるかもしれませんが、人間はある程度、合理的に物事を判断する存在ですので、あまりにも、うそくさい内容の記事が続けば、押してくれなくなり、その記事に対して反論したくなるものです。
記事の内容が自分の人生にとってプラスであるならば、応援したくなりますが、デタラメばかりしか書けないのであれば、やはりいつかは、すたれていくでしょうという意味で、人間には限界があります。
また、自分が客観的に評価されないからと言って、誰にもわからないから不正な行為をする人がいるかもしれません。表向きは自分の正しさをアピールしながら裏では実際に、自分の思うように評価されないために不正なことをしている人がいたら、自分の能力に限界を感じているからかもしれません。
自分が思うように評価されない、自分がまわりから疎んじられていると感じたら、第三者の目でもって自分を見つめるという行為が大切なのかもしれません。
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