キリスト教の信者にとって、クリスマスは聖なる日でしょう。私もキリスト教の信者ではありませんが、聖書やその他キリスト教関連の本は読んでいましたので、キリスト教の教えにも大変関心があります。
クリスマスの日は、教会で一人ひざまずき主に対してお祈りをしたい気持ちになります。
キリスト教には大きくわけて二つの教えがあります。カトリックの教えとプロテスタントの教えです。カトリックはどちらかといいますと、古いキリスト教的な精神が流れていると思いまが、儀式や儀礼を重視しているのに対し、プロテスタントは、良心と聖書中心主義になると思います。どちらもイエス様の精神を地上において体現されているのでしょう。
1500〜1600前後にマルチン・ルターという宗教改革者がいました。キリスト教の本来の精神を取り戻すために、人間は信仰と聖書のみに基づいて義とされるべきで、ローマ教皇によって義とされるべきではないと、つまり現世の権力に対して抵抗した人です。ローマ教皇庁が免罪符といいますか贖罪符というものを売り出し、お金集めをしようとしました。サンピエトロ寺院を大改築しようとしていましたので、お金が必要なのはわかりますが、献金すれば罪がゆるされるという思想に問題があったわけです。
一つの宗教が立ち上がり、規模が大きくなると、どうしても組織化してきます。そうしますと、家計を支えるためのお金が必要になってきますので、一部の人が保身に入る場合があるようです。ここで宗教としての本来の趣旨とは違ったものがでてきてしまうのかもしれません。
とりあえず、自分たちの生活が守られれば良いという考えは、本来の宗教としての使命、趣旨とは違った方向にエネルギーが流れてしまうのではないかと思えます。
ところで昔、小説家のディケンズが書いたクリスマス・カロルという小説を読んだことがあります。
初めて読んだ時、非常に感動したことを覚えていますが、内容は確か次の通りです。
強欲非道の商人スクルージという人物がいますが、クリスマスの夜に精霊が訪れます。
過去の幽霊・未来の幽霊・現在の幽霊がスクルージの前に現れ、過去の自分の姿、未来の自分の姿、現在の自分の姿を見せられます。そして、自分の強欲さによってどれだけ多くの人を泣かせてきたかということを客観的に見ることで、自分の在り方を反省します。
するとどうでしょうか。反省することによって、今まで自分が見ていた風景が違って見えてきます。心を変えることですべてが美しいものとしてスクルージの目にはうつります。
だいたいこのような内容ではないかと記憶していますが、小説としては宗教的な深い意味が含まれていると思います。
心の在り方によって各人が違った世界をみているのでしょう。世界が美しく見える人は、心の美しい人でしょうし、すべてまわりの人が敵に見え、環境によって害されたと考える人、責任はすべて自分以外にあると考える人は、やはり心も問題があるのでしょう。
クリスマスに思いつくままに書いてみました。
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