2013年11月16日

言論の自由と多様な思想

言論の自由と多様な思想

言論の自由とは大切なものです。私自身それを否定するものではありません。
本来言論の自由とはどのようなものでしょうか。

特定の宗教を信じることによって迫害を受けないために、言論の自由があります。
プロテスタントという宗派がありますが、過去に圧倒的な権力によって人々の良心が抑圧されたとき、一人ひとりの信仰をもつ信仰者達が己れの良心に基づいて講義をしました。
それが、マルティン・ルターをはじめとして起きた宗教改革であったと思います。

そして、その流れがヨーロッパやアメリカへと流れていき、近代民主主義政治の基礎をきづいたのだと思います。

個人が直接的あるいは間接的にも一定の権力によって抑圧をうけることが無いように、個人の思想・信条・意見などを公に発表できる自由。言論の自由とは、このような考えが基礎にあるのだと思います。

言論の自由があるからこそ、日本にいながらにして、世界の宗教思想や哲学を学ぶことができるのです。
ソクラテスより以前のギリシャ哲学には、ミレトスのタレスという哲学者がいます。すべては水から生じて、水にもどっていくと彼は考えていたようです。ある時タレスは天空を観測するのに夢中になって、空の方を見て歩いていたばっかりに、足もとにあった井戸に落ちてしまったそうです。これを見たトラキア人の奴隷女が「あなたさまは、熱心に天のことを知ろうとなさいますが、御自分の目の前のことや、足もとのことにはお気づきにならないのですね」と言って笑ったとのことです。このように、周りのことに気がつかないほど熱心に、ものごとを知ろうとするタレスの態度こそ、ほんとうに知識を愛する者の態度だ、とプラトンは述べています。

また、ピタゴラスという方がいます。この方は存在するすべての原理を、数学の原理の中に求めました。数学の原理の基礎は数なので、万物の原理も「数」だと考えました。数は存在するものに秩序を与え、宇宙の調和を与えるものと考えていたようです。また、魂と肉体の関係や生まれ変わり(転生輪廻)についても深い考えを持っていたようです。

また有名な哲学者では、ヘラクレイトスがいます。「人は同じ川に二度はいることはできない」と言われた方で、「万物は流転する」という言葉が有名だと思います。彼は存在するものは「生成」という運動をしていると考えました。生成とは、何かが生まれ、成長し、変化しながら滅び去ってしまいますが、再び生まれ変わってくるという生成の循環をあらわしています。
仏教的世界観に近い考えであると思えます。

さらにソクラテスは「汝自身を知れ」という言葉が有名です。つまり、自分の無知を自覚している人の方が、自覚していない人よりは知恵があるのでだと考えられた方だと思います。
プラトンの哲学の中心的な考え方は、「イデア論」であると思います。この地上において美しいもの、良いものを見たとしても、それはすべてイデアの模像(影)にすぎないという思想です。
この世にあるすべてのものはイデアの模像であり、その元型にあたるのがイデアであるという考えだと思います。

このようにギリシャ哲学を簡単に書きましたが、言論の自由があればこそ、その時代に自分が悟った内容を当時の人々や、後の世に伝えることができます。

逆に、言論の自由を規制されると、人々は知識を学ぶ機会がなく、物事の価値判断ができない状態におかれることになります。

情報を開示しない国及び政府は、国民を洗脳し、不幸にしてしまいます。
中国や北朝鮮の国民に正しい情報を提供し、判断材料を与え、善悪の価値判断ができるようになれば、良いなと思っています。

旧ソ連のように情報が開示されることによって、国自体が崩壊する可能性もあります。
言論の自由や思想の力について、何となく考えていたので本日、思ったことをまとめてみました。


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posted by ガンちゃん at 01:08 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月11日

自力と他力の宗教について考える

自力と他力の宗教について考える

日本における他力信仰は、かなりの人々の間に、根付いていると感じられます。他力信仰がいき過ぎて、御利益信仰になり、神仏を尊ぶというよりは、自分の利益が先行しているという気がします。
他力信仰が悪いと言っているのではありません。
自力型宗教にくらべて他力型宗教は、10倍ぐらいの広がりがあると読んだ覚えがありますので、他力は宗教として大切な信仰形態であると思います。

人間は地上に生まれて来ることで、肉体に基づく感覚器官をよりどころとして、対象を観察し、思考を通して認識しながら価値判断をする存在なので、どうしても感覚器官を超えた霊的世界に関しては、信じるか信じないかという個人的な事情に、最後はよることになると思います。

そして人生は四苦八苦と言われていますように、霊的世界から見たらこの物質世界はかなり厳しい修行の場であると教わっています。それゆえに、どうしても自力ではいかんともしがたい状況が現れ、どのように判断して問題を解決すればよいのかわからず、迷いの世界に入ってしまいます。

これは自分も含めて、真理を学んだとしても知識で止まっているのか、学んだ内容が実践を通して自分のものとしているかで、違った結果が現れてくるのでしょう。
しかし、真理を学んだ人たちは人生の試練や苦しみ、悩みを単純に嘆くのでなく、魂の肥しとして砥石として理解しながら魂を鍛えているという観点で受け止めるので、人生観が唯物論的生き方をする人たちと明らかに、意味が違っていると思います。

「人間は、たとえ、亡くなる時点において、他の人から尊敬される立場に立っていなかったとしても、その思いと行いが正しいものであれば、あの世に帰ったからきちんとそれなりの判定がされる」と教わっています。
人間が永遠の転生輪廻の中を生きていくということは、やはり、自助努力があっての他力であり、始めから何の努力もしないで、他力にお願いするということはどうなのかなと思ってしまいます。
また、会員信者であっても今後も困難苦難はあるかもしれないが、それを「信仰の是非あるいは善悪」の結果として受け取らないで下さい。とも言われています。

ドイツの観念論哲学のフィヒテは、「人間が進歩発展するプロセスのなかには、霊的な力がはっきりと顕現していで、哲学者はそのような人間一人ひとりの内なる進歩発展の原動力の奥深くまで認識の眼を向け、魂の根源を認識の光で照らしださなければならない、それが哲学者の最も大事な課題なのだ。」という意味のことを言われていたと思います。

意外に霊的世界を知るには、自分自身の内側をしっかりと見つめ直すことで、ある程度の霊的認識をつかむことができるかもしれません。
例えば、太平洋の海の水と一滴の水は量的にいえば比較になりませんが、両方の水はH2Oという点で共通しています。太平洋の海水(宇宙)を知ろうとすれば一滴の水(個人)を分析することで知る手かがりをつかめるかもしれません。

他力を推し進めると、広がりが出てきますが、内容や質の点で落ちてくると思われますし、自力が行き過ぎると、ついてくるものは、ついてきなさいという世界になってしまうので、宗教にとってはどちらも必要でありますが、自力と他力は二律背反しているので統合するのは更に難しいという感じがします。

結論は宗教において、自力も他力も両方大事でありますが、順番としては自力、努力精進が最初に大事なことで、やるべきことをやり、その上での他力であると思います。
自我力までいってはいけないと思いますが、生まれてくる目的を考えると自力→他力の順番だと思う。

捕捉で、ただ現実には自分の力ではいかんともしがたい現実があるので、その時は他力にゆだねることは大事なことであると考えます。


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posted by ガンちゃん at 23:11 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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