学者及び現代人は、宗教的な神秘的体験を自分の常識という認識の枠組みにあてはめて考えること以外にできないので、それを否定し自分のわかる範囲に限定をかけてきます。
しかし、仏教でもキリスト教でも宗教的神秘の部分を、自分の常識で判断できないという理由で否定してしまったのでは、宗教の真実を知ることができないと思います。
現在は科学万能の時代です。私も物理学や、化学的な理論は好きですが、しかし、科学において現時点で説明できないことなど、無数にあるはずです。神秘体験を科学的根拠がないと否定する人は、それほど深く自分自身で真理を探究していないのかもしれません。
福音書においても、数多くの神秘的な出来事が書かれています。
イエス様は荒野にてサタンと対決しています。
また、死して後に復活をされています。とある歴史家はこれらの奇跡を理解することができず、ローマーが滅んだ原因は、キリスト教が広がった為であるというようなことを書かれています。
また、仏教においても悪魔との対決が書かれています。
魔王は自分の娘たちを呼びよせ、ボサツを誘惑することを命じます。魔王の娘たちは、こびを呈しながら、ボサツに語りかけます。
「時は春、木も草もさかんに成長しています。人も若いあいだが楽しいものです。青春は二度とめぐっては来ません。見ればあなたは若くて美しい、私達のこの美しい姿を見てください。さあいっしょに遊びましょう。座禅をして悟るなんてどんでもないことです」と誘惑してきますが、ボサツは少しも心を動かすことなく、おだやかな、優しい言葉でさとしてやります。
「肉体の快楽には悩みがともなう。私はもうとうの昔にそういう悩みを超越してしまった。この道理がわからないので、世間の人たちは情欲に迷っている。私はいま絶対的な精神的自由に到達しようとしている。自分が自由になったうえで、世の人々をも自由にしてやろうと思っている。空とぶ風のような自由なこの私を、どうして繋ぎとめることができようか」と切り返しています。新釈尊伝 渡辺照宏著者
上記の話は、人間としての欲望の部分を攻撃しているのでしょう。
また、世間的権力と引き換えに、宗教的な使命を断念させようとして誘惑してきます。
これは上記で書きましたように、イエス様に対するサタンの攻撃でしょう。
福音書にはサタンがイエス様を、なんとか誘惑しようと試みています。
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」
それから悪魔はイエス様を都に連れて行き、宮の頂上にたたせて
「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛び下りてごらんなさい」
次に悪魔は、イエス様を非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて、
「もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆、あなたにあげましょう」
といって最後は世間的な権力を利用してイエス様を誘惑しようとしています。
しかし、サタンが、もしあなたが神の子であるなら〜どうのこうのと誘惑しても、それが神の子としての証明になるわけではありません。
結局、悪魔や魔王と言われる存在は、外面的なもので誘惑しようとします。
悪魔との対決も神秘的な体験であると言えると思います。
そんな超自然的なことが事実であるはずがないと、自分が認識できる範囲に宗教的な体験を限定してしまう態度では、仏典や聖書を読んでも無駄であると思います。
自分の常識で理解できることだけを事実として取りあげ、それ以外のものは切り捨てるのであれば、宗教と呼べるべきものではありません。
宗教は、私達が理解できる常識以上のことを語ろうとしています。
客観的な証明ができない、経験的な認識では理解できないので信じることができない。
科学的な根拠が明確でないなど、いろいろな理由で現代人は奇跡を信じようとしません。
しかし、悪魔の声を聞いた人達にとっては真実であり、霊的な存在を見ることができる人にとっては、また真実であり事実であるのです。
自分が経験でき、認識できる範囲に限定をかけ、それ以外は認めようとしないことが、現代的知識人であるかのような風潮がありますが、そのような態度では宗教的な真意を汲み取ることはできないでしょう。
自分の経験や体験を超えたところに、あるいは五感を通して感じとることができない領域にこそ真実や真理が隠されているということを認め、受け入れることで宗教的な悟りが広がっていくのではないかと思います。
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