『人間の本質は肉体に宿った霊的存在です。』
霊的存在という言葉に、どれだけ深い意味をつかむことができるかが、一つの悟りの目安になるのではないかと思います。
しかし、霊的感覚が通常の人よりあること自体が、悟りの高さと直接には因果関係があるとはかぎりません。
源信(942〜1017)の『往生要集』を参考に、当会の教えと重なる部分を見ていきながら、霊的世界観について考えてみます。
日本の歴史の中で、これほど直接的に霊界世界に関して明確に書いた本は、それほどないと思います。
最初は地獄の世界観が書かれていますが、これは実際にみてこなければわからない内容になっています。
想像や空想では、ここまでは書けないでしょうというぐらいに具体的に書かれています。
現代の日本人は地獄といっても、全く遠い世界の話で、昔の人が子供を躾けるための方便ぐらいにしか理解していないと思いますが、方便と思うか、死して後に現実世界として存在すると思うかで、地上生活での生き方が違ってきます。
もちろん、時間が流れているので、往生要集に書かれているとおりの霊界世界と変わっているところもあると思いますが、基本的に人間の持つ欲望自体は変わらないと思うので、現代でも参考になる重要な本であると、自分の中で位置付けしています。
まず、地獄を八つに分類して描写しています。等活地獄、黒綱、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、阿鼻地獄とそれぞれの心の在り方と、生き方によって行く世界が違ってきます。どんな内容の地獄かは省略しますが、明確に分類されています。
一つ言えることは、どの地獄に落ちるにしても地上における苦しみの方がマシだと思えてくることは、間違いありません。
伝道とは、地上こそがすべてであり、死ねば何もかもなくなると言った唯物論的な人達にきっかけを与えることでありますが、このようにも書かれています。
「自分がまだ彼岸に渡る力がなくて渡れないでいるのに、他人を渡すことはできない。自分自身が泥に埋まっている状態で、どうして他人に教えよう。また、自分が水に漂っているのに人の溺れるのを救うことができないようなものである。それゆえに、自分が渡り終わってから人を渡すのが当然だと説くのである。」
しかし、これを伝道しない言い訳にしてはいけないことは、言うまでも有りません。
次に、餓鬼道、畜生道、阿修羅が描写されていますが、内容は省略しますが、読んでみて地獄に落ちる一番の原因は、貪りの心と不当な怒りの心であると思われます。
『止観』の引用で次のように書かれています。
「いまだ人間の不浄の真相を知らない時は、この世を貪り執着し、あるいは煩悩の虜となる。だが、いったん不浄のなんたるかを目撃したなら、愛欲の情はたちどころにやみ、耐えられないものとなる。ちょうど、糞を見ない時は食事もおいしいものだが、もしもその臭気を嗅いだなら、たちまちむかついて吐き出してしまうようなものだ」
「身の不浄を知ることは、淫欲の情の溺れる人間の病を癒すところの、すぐれて効果のある煎じ薬といえよう」
不浄観であろうが、修行としては厳しいと自分的には思います。
四苦(生・老・病・死)に関しても無常という観点から説明されています。
「地・水・火・風の四つの要素の結合からなるこの身は、まことに苦の連続である。悦楽に耽るべきものではない。生・老・病・死の苦しみはかならずやってくるもので、逃げかくれしてやり過ごせるものではない。ところが、人は貪りの心のために、己を直視することができず、どこまでも五欲に執するのが一般である。ために、はかない存在を永遠のものと錯覚したり、楽しみではないものを楽しみであると思いこんだりするのだ。・・・省略・・・ましてや剣の山、火と燃える熱湯の池が、ようやくおのれの身辺に忍び寄ろうとしているのに。智慧のある者で、誰がいったいこの身を宝と観じて愛玩する者がいるであろうか。」
これを読むと、人間は死んでから地獄、天国に行くのではなく、すでに地上で生きている中に、あるいは心の中に天国・地獄が展開しているのであると教えられています。
また、「いまだかつて仏道にいそしむことを知らなかったゆえに、数多くの劫にわたって、いたずらに生死を繰り返してきたのである。いまにして勤め励むことをしなければ、未来もまた、同じ愚を繰り返すであろう。」
「仏の教えを受ける好機にめぐりあうことはまた難しいのである。たとえ仏の教えを聞く機を得ても、信心に至るのは、また難しいことなのだ。」
全くその通りですとしか言いようがありませんが、確かに当初、書籍を読めば真理の内容が分かるでしょうと、自分が説明するより真理の書籍を献本した方が、いいのではないかと思いましたが、意外と自分が期待していた反応とは違ってびっくりしたことを覚えていますが、(相手を見下しているわけではありません)今にして思えば完全に手抜きであったと反省しています。
余談ですが、源信は自分の霊的体験を踏まえ、いろんな仏典を学びつくした印象を受けます。法華経がすべてであるとか、御経の、この部分だけ唱えればよいと言った考え方でなく、すべての仏典から知識を学び、自分の霊的体験と結びつけながら、書かれているので「往生要集」は大事な日本の仏典であると思います。
源信は、「どうか道にいそしむ者たちよ、いっときも早くこの不浄世界を厭い離れる心を発し、すみやかに解脱(さとり)の世界に入られよ。せっかく宝の山に入りながら、手を空しゅうして帰る愚を犯さないでほしいのだ」といわれています。
霊的世界が本来の世界で、この地上はいっときの仮の住まいであるという前提で書かれています。更に、仏の教えを今回、直接母国語で聴くことができ、本として何回も繰り返し読むこともできる、恵まれた時代であると再確認させられます。
「身の実相はみな不浄なりと見る、すなわちこれ空・無我を感ずるなり」と言われています。
霊的世界が確実にあるとういう前提で読むと、肉体にまつわる煩悩や執着を断つ教えであると理解できますが、唯物論的な考え方しか持ちえない人が『空』や『無我』の話を聞くと、死ねば何もなくなるという結論になる可能性があるので、しっかりと説明できるように自分自身の対機説法能力を鍛えておきたいと思います。
「かくのごときもろもろの塵労(煩悩)を滅せんと欲せば、まさに真実解脱の諦(真理)を修すべし」ということです。
また、大経の偈を引用して、「諸行は無常なり これ生滅の法なり 生滅の滅しおわれば 寂滅(悟り、涅槃)を楽しみとなす」と書かれています。
「修行者たるもの、このことに思いを潜め、ゆめゆるがせにしてはならない。説かれるところをよく観想し、貪りや怒り、愚痴といったいわゆる三毒の煩悩を、あたかも獅子が人を追い散らすがごとき遠ざけるべきである。仏の教え以外の邪説、邪道に迷わされ、無意味な苦行を行って、愚かな犬が土塊を追いまわすようなことをしてはならないのだ」
苦楽の中道や空・無我に関しても、現在当会で説かれている教えとかなり重なっていると思われるし、あるいは、難しい教えのところが理解できなくても、『人間の本質は肉体に宿った霊的存在です。』という教えを信じ、確信するところまでいけば、人生観が180度変わるし、人に対しても優しくなれるのではないかと思います。
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