『本日の格言 慈悲とは』は、以下の内容です。
「慈悲とは、実は、「世界観の転換」なのです。「この世に生きている、人も、動物も、植物も、宇宙の人たちも、あるいは、地球も、太陽も、月も、ほかの星も、すべてのものが、自分という生命を躍動させるために創られている。そういう、ありがたい世界として、すべてが創られている」という世界観なのです。」
今日は、たまたま愛について考えていましたので、『慈悲とは』について考えていた内容とからめて考察したいと思います。
宇宙を支配している法則、宇宙を貫く力、それを私達は愛とよんでいるかもしれません。
宇宙人リーディングによって、宇宙人のさまざまな価値観を私達は学びました。
レプタリアン系宇宙人は、力こそ正義であり、愛や慈悲は弱さに見えるようなので、それを知ったときショックを受けました。
愛は、地球だけに完結した教えであり、宇宙を貫く普遍的な教えではないのかと一瞬、考えてしまいましたが、やはり愛あるいは愛の大河、慈悲こそが宇宙の存在をあらしめている力であると確信します。
例えば日の光が三次元的な立方体に照射されると、二次元的平面(影)ができます。高次元の光りが四次元という存在形式を通過すると、三次元的存在が現出するのでしょう。
日が雲にかくれたら光は射してきませんから、影は発生しません。
もし、高次元に存在する神や仏という存在が、はるか彼方から流れてくる愛の大河、あらいは光の供給を上の次元で止めてしまったらどうなるのでしょうか。
日が射さなければ影という存在ができないように、我々が生存している三次元的物質世界など跡形もなく消えてしまうでしょう。
これは上記に書かれている、人や宇宙人、動植物や天体などは偶然にできたものではなく、創られた存在、創られた世界観であると言っていることと同じ意味であると自分は思っています。
仮に、どのような悪魔的な存在がいたとしても、それはやはり存在が許されている以上は、生かされている創られた存在であり、神仏の考える方向と逆方向に行くのであれば、消されても文句は言えないと言うことになってしまいます。
地獄の住人達は地上に住む人間の悪想念を吸い取って、存在していると言われていますが、突き詰めて考えますと、やはり高次元の光に行き着きます。
それはレプタリアンであっても同じで、力がすべてであると考えていても、その存在を支えている力があるということです。
宇宙を支配している根源的なる力が愛であるからこそ、その愛が私達の前に、多様な現れ方をしてくるのでしょう。
ですから優しさも愛であり、厳しさも愛、他の人のためにという思いはすべて愛であり、宇宙の光とつながっていることだと思います。
しかし、三次元においては、思いだけでは具現化しませんので、智慧を介在しなければいけないのでしょう。
智とは愛をより高度なものにするためのものであり、方向を間違ったときの軌道修正が反省であり、その先にあるのが神仏の念にかなった発展・繁栄があるのでしょう。
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