2013年07月28日

「大川談話」解題――先の大戦をどう見るか?[HRPニュースファイル711]

「大川談話」解題――先の大戦をどう見るか?[HRPニュースファイル711]

◆先の大戦をどう見るか?

昨日のHRPニュースファイル「『大川談話』発表!―今こそ、『河野談話』『村山談話』の白紙撤回を!」では、大川談話発表に至った経緯について述べましたが、「大川談話」の核心部分には、下記のように「先の大戦をどう見るか」という自虐史観払拭に向けた「真実の歴史認識」があります。

【先の大東亜戦争は、欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正当な自衛権の行使としてなされたものである。】

すなわち、先の大戦は、東京裁判史観にある「日本による侵略戦争」ではなく、(1)欧米列強からのアジア植民地の開放、(2)白人優位の人種差別政策の打破、(3)自衛権の行使としての戦争という3つの目的があったと総括されています。今回は、この3点について解説を加えさせて頂きます。

◆(1)欧米列強からのアジア植民地の開放

幸福実現党・大川隆法総裁は「日本は先の戦争を『大東亜戦争』と称し、『アジアにある欧米列強の植民地を解放する』という理想を掲げていました。それは日本神道の神々から出ていたものであり、戦争が終わった段階で確かに達成されました」と述べています。(大川隆法著『奇跡の法』幸福の科学出版,2001)

「大東亜戦争によって欧米列強による植民地支配が終わった」というのは、世界の歴史学者が認める歴史的真実です。

例えば、英国サッセックス大学のクリストファー・ソーン教授は著書『太平洋戦争とは何だったのか』(草思社,2005)で、次のように述べています。

・「日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国主義の終焉を早めた。」

・「極東における西欧諸国の略奪的な帝国主義的存在と、日本がアジアの近隣地域を本質的に防衛のために領有するのとでは、両者ははっきりと区別すべきものである」

実際、大東亜戦争終了後、アジアの国々はフィリピン(1946年)、インド(1947年)、ビルマ(1948年)、インドネシア(1949年)、ラオス(1953年)、カンボジア(1953年)、ベトナム(1954年)、マレーシア(1957年)、シンガポール(1963年)など、次々と欧米列強から独立を果たしています。(参照:7/26 Liberty Web「河野・村山談話は無効である 歴史問題を永遠に葬り去る 大川談話ー私案― -2-」)
http://the-liberty.com/article.php?item_id=6390

それは、タイのククリット・プラモード元首相が「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている」と述べている通りです。

◆(2)白人優位の人種差別政策の打破

日本は、大戦前から「白人優位の人種差別政策の撤廃」を訴えて来ました。

国際連盟設立にあたっても、日本はその規約に「人種差別の撤廃」「人種平等の原則」条項を入れるよう、強く主張して来ました。

世界の有色人種はそうした日本に期待を抱き、全米黒人新聞協会は「われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で『人種問題』について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」というコメントを発表しています。

しかし、日本の提案は否決され、大戦終決後の1948年、国際連合で「世界人権宣言」において、ようやく「人種差別撤廃」が採決されました。

ここに至るには、大東亜戦争において、アジア植民地から欧米列強を排斥した日本の奮闘があったことは否定できません。

このことについて、ドイツの歴史教科書には下記のように記されています。(2001/5/13 産経「教科書が教えている歴史(8)」より)

・「日本のナショナリストや軍国主義者は、黄色人種を白人の支配から解放するために戦争を遂行したと主張した。この中で自分たちの利害を包み隠しているが、真実をついた面もある。
ベトナムやインドネシア、インドなど、欧州諸国に支配されていた植民地諸国の国民による独立運動は、日本(初戦)の勝利によって加速された。」

インドの元ネール首相の妹のパンデイット夫人は、1945年に訪米した際に、「太平洋戦争は本質的には人種戦争だ」と語りましたが、先の大戦の中核には「人種差別との戦い」という大義があったのです。

◆(3)日本の自衛のための戦争

先の大戦は、日本の安全保障と「自存自衛」のための戦争でした。

長期スパンで日本の近現代史を俯瞰すれば、1853年に浦賀沖にアメリカ合衆国のペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊が来航以来、大東亜戦争終決に至るまでの歴史は、日本にとって「欧米列強から日本を守り抜くための百年」だったと総括できます。

特に、日米開戦に当っては、アメリカはABCD包囲網を形成し、日本への石油禁輸など、「経済戦争」をしかけて来ました。これはアメリカによる事実上の「先制攻撃」と捉えることもできます。

このことについて、イギリスのデイリー・メイル紙は下記の通り述べています。

・「日本が戦争を始めた理由は、フィリピンを初めとする東洋へのアメリカの進出を、いかに日本が恐怖に感じたかを理解しなければ分からないだろう。」

・「また1941年に、アメリカが日本へのいっさいの石油資源の供給を絶った時の日本の感じた深刻さも無視することはできないであろう。そう考えてみれば、真珠湾攻撃を一方的に卑劣だと非難することはあたらない。」

先の大戦が「日本による侵略戦争」でなかったことについては、戦後、連合国軍総司令官であったマッカーサー氏自身が、日本が大東亜戦争に突入していった原因は「主として自衛のために迫られてのことだった」と証言している通りです。(1951/5/3 米上院軍事・外交合同委員会)

◆今こそ、日本の誇りを取り戻す時

以上、大東亜戦争について、(1)欧米列強からのアジア植民地の開放、(2)白人優位の人種差別政策の打破、(3)日本の自衛のための戦争という視点から、「真実の歴史認識」についてお伝え致しました。

「大川談話」は大東亜戦争について、「政府として今一歩力及ばず、原爆を使用したアメリカ合衆国に敗れはしたものの、アジアの同胞を解放するための聖戦として、日本の神々の熱き思いの一部を実現せしものと考える。」と述べています。

「大川談話―私案―」を契機として、今こそ、安倍首相は、先の大戦は「日本による侵略戦争ではなく、自衛権の行使としてなされたものである」ことを闡明(せんめい)にすべきです。(文責・政務調査会長 黒川白雲)
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posted by ガンちゃん at 22:08 | Comment(0) | 幸福実現党 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月27日

宗教的な愛と法律について

宗教的な愛と法律について

法律の淵源は、モーゼの十戒に始まります。一、汝、吾の外何者も神とすべからず。二、汝、何の偶像も刻むべからず。三、汝、吾が名をみだりに口に唱うべからず。四、汝、安息日を覚えて、聖くすべし。五、汝、父母を敬え。六、殺すなかれ。七、汝、姦淫するなかれ。八、汝、盗むなかれ。九、汝、隣人につき偽証するなかれ。十、汝、隣人の家を貪ることなかれ。
以上が十の戒めですが、内容は何々をしてはいけないという律法になっています。

カントは、例えば、「人を殺してはいけない」という立法の命令は、『普遍的立法の原理として妥当しうる原則』『いかなる理性的存在者の意思にも妥当するものと認められる原則』と定義していると思いますが、愛との関係で考えた時に、いまひとつ宗教的な教えとして、人間の本質であるところの霊的な自己を浄化するという観点をみつけることができないような気がします。
法律とは、決められた範囲内であれば自由を保障します、という外部から与えられた義務であると理解することもできます。
しかし、ヘーゲルはキリスト教的な愛について「それは、律法で戒めている行為をしないというだけでなく、むしろ、かの律法を不要と化すものであり、それによって律法のような貧しいものはもはや存在しなくなるほどに、はるかに豊かな生き生きとした充実をそのうちに宿すものなのです。」と述べています。
法律によって人々を規制しなくても、自分自身の思いと行動を自分自身で統御できる、自身は自由に生きていながら、それでいて真理から外れた生き方をしない、まさに自由自在の境地なのかもしれません。

「愛にあって義務観念はすべて消えうせる」とヘーゲルだったと思いますが、読んだことを覚えています。

法律で規制されている行為をしないということは、心からそのようにしたいと思ってする行為とは違う部分があるように思います。
心の中で、してはいけないことなので自分自身で自分の行動を統御するのと、法律で規制されているから仕方なく悪い行動を起こさないのとでは、外部からは同じに見えても霊的には全く違います。
霊的世界は想いの世界ですから、行動する前の動機の部分が大事であって、外面的な行為は二次的な問題になると思います。

ばれなければ法律を犯して他人に迷惑をかけても恥じない人がいるように、本人の意思に基づいた行為が善悪の善であることが大事であると思います。

法律とは突き詰めて考えると、神の正義、神からみた善悪とは何かということ、神の価値秩序というものを地上的に翻訳しようとしたのが法律であると自分は思います。

しかし、イエス様は、このような正義、不正義の領域全体を愛によって乗り越えることを要求しています。もちろん、宗教の使命として悪をおしとどめ、善を推し進めるとういう役割がありますが、善か悪かという二元的な基準だけでは宗教としての霊性の進化という点で何か足りないものがあるような気がします。
弁証法的な考え方になるかもしれませんが、善と悪を知った上で、善なる方向を目指すべきですが、それをも乗り越えていくものが愛の一つの側面だと思います。


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posted by ガンちゃん at 00:12 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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