2013年05月22日

【再掲】東京裁判史観からの脱却その3 支那事変について

東京裁判史観からの脱却その3支那事変について

東京裁判はとにかく日本を潰したいという意図がみえます。
例えば、旧ソ連によって裁判に取り上げられた二つの国境紛争ですが、ソ連は1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件(満州東南端にある張鼓峰でおきたソ連との国境紛争)と1939年に起こったノモンハン事件(満州とモンゴルとの国境紛争)といった停戦協定が結ばれていて終わっている問題を持ち出してきて、それを日本の侵略として糾弾しています。
渡部昇一氏の著書から引用しますと、そもそもソ連が判事や検事を出すことじたいがおかしいことで、ソ連は、日本の敗色が濃厚になった終戦間際に、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻してきました。しかも日本は停戦していて整然と武器を渡したにもかかわらず、60万以上の兵士や日本人を拉致して強制労働をさせています。明らかに国際法に違反する行為をしておきながら、判事や検事を出しているのです。ポツダム宣言第九条にも日本軍の帰国についてすみやかに『各自の家庭に復帰し平和的且つ生産的生活を営む機会を』与えることを明記してあります。
東京裁判を行うことにしたのは、ポツダム宣言によるものであったにもかかわらず、です。


支那事変は、1937年に北京の西南にある盧溝橋付近で軍事演習をしていた日本軍に向かって何者かが発砲した事件、盧溝橋事件が発端になっています。この発砲がもとで支那側との戦闘がはじまり、次第に全面戦争へと拡大していきます。

これは日本軍が仕掛けた戦争ではない理由を渡部氏の著書から引用しますと、最初の発砲に関しては、シナ軍の偶発的発砲説、日本の自作自演説、中国共産党の陰謀説など色々ありましたが、少なくとも実包をすべて封印して演習している日本軍がはるかに数の多いシナ軍を挑発して戦闘を誘発する行為はありえないと言えます。

そうこうするうちに、北京の東にある通州で日本人二百人以上が虐殺されるという通州事件が起こり、ついに両軍の全面的な衝突へと発展していきます。
当時の大本営の作戦部長、石原莞爾は満州第一主義で、シナとの戦争など全く考えていなかったようです。石原莞爾は、満州を繁栄させて反共の砦にすることで、ソ連に対しての備えになると考えていたようです。シナ大陸に対する領土拡大の野心など持っていませんでした。
つまり大本営がシナとの戦争を計画的に考えていたわけではなく、必然的に日本が仕掛けた戦争ではないということになると思います。

真実はどうであったか。
毛沢東の共産党の分子が蒋介石の国民党に入りこんで、国民党と日本軍を戦わせて国民党の力を弱体化させ、自分たちの天下をとろうとした毛沢東の戦略であったようです。
発砲事件を起こしたのは、国民党に潜り込んだ共産党員であったと考えられています。
盧溝橋事件が共産党の陰謀であったことは、事実であると思われます。

満州事変と支那事変は東京裁判で、日本の侵略戦争と決めつけられ、それを前提として裁判が行われていましたが、しかし実態といえば、とても日本が侵略をしたと言えるようなものではなかったのです。


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posted by ガンちゃん at 22:30 | Comment(2) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【再掲】東京裁判史観からの脱却その2 満州事変は侵略戦争ではない編

東京裁判史観からの脱却その2 満州事変は侵略戦争ではない編

以前、東京裁判が日本人に対して徹底的に罪悪感を植え付けるための、日本人を弱体化させるための意図がみてとれる違法裁判であると書いたことがあります。

東京裁判史観からの脱却 以下参照
http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/291405916.html

東京裁判は、満州事変は日本がおこした侵略戦争であるという論法でありますが、本当に満州事変が、侵略戦争であったのでしょうか?
現在の日本人は、満州事変が日本の侵略戦争であるという考え方が主流であるようですが、それは東京裁判の影響が大きいわけです。

日本には不戦条約によって自衛のための戦争であると主張する権利があったはずです。
しかし、裁判は弁護側の主張を無視する形で進められました。
日本で戦後の左翼の歴史家が15年戦争といっているのは、満州事変(1931年)から大東亜戦争終結(1945年)までを一つの戦争とみなす東京裁判の検事側に無批判で同調しているからです。

満州事変が起きた時、当時、国際連盟はイギリスのリットンを団長としたリットン調査団を送り込んでいます。
イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリアの五カ国から一人ずつになって調査をし、結果をまとめています。
結論は、「これはある国が隣の国を攻め込んだというような簡単な侵略とは言えない」としています。
当時の国際連盟ですら「侵略ではない」と判断しているのに、東京裁判は「侵略である」と結論付けようとしていました。
そして、それを立証するために満州国皇帝溥儀を引っ張り出してきました。
溥儀は、「満州国皇帝にはなりたくなかったが、日本人に否応なしに引っ張り出された」という証言をしています。これは、溥儀の本心ではなく、裁判になる前、ソ連に捕らえられて、反日の虚偽の証言をするように脅迫されていたと考えられます。

偽証してまで満州事変を侵略戦争に仕立てようとしたのは、東京裁判でほとんど裁くべき問題がなくなってしまうからです。

調査団によって「簡単に侵略とは認められない」と結論付けられていたのに、無理矢理、侵略戦争に仕立て上げようとしたところに、東京裁判のインチキ性がみてとれます。

リットン調査団は満州事変が侵略戦争ではないという根拠は、溥儀の家庭教であったイギリス人サー・レジナルト・ジョンストンの著した『紫禁城の黄昏』という本にあります。渡部昇一氏 参照

要約すると満州が混乱状態の中、日本人の後押しを受けて溥儀が戻ってきます。すると、満州族の皇帝が戻ってきたと歓迎されて、溥儀のもとにみんなが集まってきました。満州国が独立したのです。
溥儀は日本に対して感謝をしていたはずです。
リットン調査団の報告にも、日本の軍隊が後押ししなければ満州国は、成立しなかっただろうと述べています。
満州建国は侵略というものではなく、満州国の正当な皇帝が故郷に戻ってきたということです。

満州族の王朝である清朝はシナの土地を長い間支配しますが、1840年のアヘン戦争でイギリスに敗れ、独立は維持できたものの、不平等条約の凍結を強いられ、西欧列強によって植民地化しつつありました。当時、外国人にやりたい放題されて、民衆の不満が爆発、いろんな事件が起きましたが、反乱はすぐに鎮圧されますが、混乱に便乗してロシアの軍隊が満州に侵攻、全域を占領してしまいました。

しかもロシアは更に南下して北朝鮮に進行しようとしていました。
日本にとってロシアが北朝鮮に南進するということは、日本にとって重大な問題で、強大なヤクザが隣に引っ越してきたようなものです。
日本にとって何としても阻止しなければならないということで、日露戦争(1904〜1905年)が勃発しました。
日露戦争で勝利した日本は、1905年に結ばれたポーツマス条約によってロシアを満州の地から追い払い、満州を清国に返還しました。

日本に満州を占領する意図はなく、満州国をつくる手助けをしたにすぎません。満州の地を満州族の皇帝に返したというだけで、とても侵略と呼べるものではありませんでした。

ちなみに『紫禁城の黄昏』は、証拠として採用されませんでした。理由は、裁判官が証拠物件として採用したら反論の余地がなくなるからです。
満州事変の真偽を明らかにする第一級の証拠、『紫禁城の黄昏』は結局、採用されませんでした。

満州事変の背後には、コミンテルンの陰部が見え隠れしています。
満州事変が侵略であると認定されたのは、溥儀の心変りが大きな理由です。当時の満州皇帝・溥儀の言葉が証明であるというのが、検事側の主張であると思いますが、溥儀の証言は全くのうそであり、背後にコミンテルンの動きがあったことが明らかになってきています。

東京裁判で満州国を日本の侵略にしようとしたことは、ジョンストンとリットン調査団の報告を無視した非常に独断的で一方的なものでありました。侵略と騒いでいるのは、コミンテルンと、コミンテルンの支持を受けていたシナ人達であります。

日本人は東京裁判の嘘を見抜き、日本人としての誇りを取り戻していくべきです。
そうしてこそ、日本人としての自信を持ち、世界に対しても正義を実現する力がでてくると思います。


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posted by ガンちゃん at 00:34 | Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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