2013年03月07日

自分に厳しく相手に優しく

自分に厳しく相手に優しく

自助努力と他の人に対しての優しさについて考えてみます。

自助努力と対極にあると思われるのが、他力型宗教でしょう。自分の努力では、解決しがたい問題に直面した時、人間として、他力にお願いしたい気持ちになります。
「他力の宗教のマーケットは自力の宗教の10倍ある」といわれていますので、宗教として他力は大切な信仰形態です。
しかし、人生の苦しみを自分自身の自助努力でのりこえてきた人達は、他人に対しての優しさを持ち合わせているような気がします。
自分の苦しみを通して、相手の苦しみや悲しさを理解することができるのでしょう。
相手の批判ばかりする人は、自分自身のことを棚に上げ、他の人の苦しみがまったく理解できないのでしょう。
そして人生は四苦八苦と言われるように、霊的世界からみた三次元物質世界は、かなり厳しい修行の場であると教わっています。何十年かの人生で、どうしても自力ではのりこえがたい状況が現れ、どのように判断して、問題を解決すればよいのかわからずに、迷いの世界に入ってしまいます。これは自分も含めて学んだ真理が知識だけで止まっているか、学んだ真理知識の内容が、実践を通して、自分のものとしているかによって、違った結果として現れてくると思います。

しかし、結果はどうであれ、真理を学んだ人たちは、人生の試練や苦しみや悩みを単純に嘆くのでなく、魂の肥しとして砥石として理解し、魂を鍛えているという観点で受け止めていますので、人生観が唯物論的生き方をする人たちとは明らかに、苦しみの受け止め方が違ってきます。

「人間は、たとえ、亡くなる時点において、他の人から尊敬される立場に立っていなかったとしても、その思いと行いが正しいものであれば、あの世に帰ったから、きちんとそれなりの判定がされる」と教わっています。
「人間が、永遠の転生輪廻の中を生きていく存在」ということから考えますと、やはり、自助努力があっての他力であり、何の努力もしないで、他力にお願いするということは魂的に進歩しないのかもしれません。

また、『会員信者であっても今後も困難苦難はあるかもしれないが、それを「信仰の是非あるいは善悪」の結果として受け取らないで下さい。』とも言われています。

ドイツの観念論哲学のフィヒテは、「人間が進歩発展するプロセスのなかには、霊的な力がはっきりと顕現していで、哲学者は、そのような人間一人ひとりの内なる進歩発展の原動力の奥深くまで認識の眼を向け、魂の根源を認識の光で照らしださなければならない、それが哲学者の最も大事な課題なのだ。」という意味のことを言われていたと思います。

霊的世界を知るためには、自分自身の内面を、しっかりと見つめ直すことであると思えます。
例えば、太平洋の海の水と、一滴の水は、量的にいえば比較になりませんが、両方の水はH2Oという点で共通しています。太平洋の海水(宇宙、あるいは霊的世界)を知ろうとすれば一滴の水(個人)を分析することで、知る手かがりをつかむことができると思います。

宗教的には、他力を推し進めると、広がりはありますが、内容や質の点で落ちてくると思われるし、自力が行き過ぎると、ついてくるものは、ついてきなさいという世界になってしまうので、宗教にとってはどちらも必要であると思います。

自力と他力は二律背反(上求菩提・下化衆生)していますが、人生における苦しみや悲しみを、乗り越えた人ほど、相手に対する思いやりや、優しさを持つことができ、影響力のある人になることができるのではないかと思います。

また、信仰を持つことで苦しみや悲しみ、不幸と思われる出来事に遭遇することがあると思いますが、上記にも書きましたように、「信仰の是非あるいは善悪」の結果として受け止めずに、永遠の転生輪廻の過程で、自分の魂が今、鍛えられているのだという観点が大切であると思います。


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posted by ガンちゃん at 03:05 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月04日

仏陀の教え・あるブログについて

仏陀の教え・あるブログについて

ある著作者の書籍から仏陀の言葉を以下のように解釈していました。
本人の解釈ですので、他の人が口出しするべきではないと思いますが、仏陀の考えから外れているのではないかと思い、記事から2〜3引用して、自分の考えを述べたいと思います。
もちろん、その方自身を否定するものではありません。

『○デーヴァダッタは大悪人のように記されているが、実際はブッダ以上に
 厳格な生活をしていた修行僧だった。彼はブッダに昔ながらの修行者の
 スタイルに戻ろうと提案したのを断られた為、自分を慕う仲間を連れて
 グループを出ていった』と書かれています。
確かに八正道には「正命」、正しい生活があります。
思い、言葉、行為、これらを仏法真理という価値基準から点検して、その日、一日の生活を正して、生活を送ることができたかを、反省する教えです。
しかし、生活を正すということは、厳格に戒律を守ること自体が重要なことであるのではないと思います。
大事なことは、自分の心をどれだけ深めることができるかということであって、その為の正しい生活であるということだと考えます。
生活が乱れていて、堕落したような環境で悟りを得ることはできないでしょう。
上記のように、実際はブッダ以上に厳格な生活をしていた修行僧だったと書かれると、デーヴァダッタの方が、仏陀より修行が進んでいるかのように読めます。
もちろん、戒律を守った生活を送ることが、自分を律し、精神的にも強くなると思いますが。

次に、このように書かれていました。
『○仏陀の言葉にすら依存しないこと、と言っていた』
仏教の教えには、「空」の教えがあります。
ナーガールジュナは実体を次のように規定し、空の説明をしていました。
まず、実体とは自立的であるといいます。実体が他に依存するなどということはありえないからです。
実体は常住なものだから、それが他に依存して生じたり、滅したりすることはありません。だから自立的であると言います。自立的であるということは、縁起ということの対立概念です。
次に実体は恒常不変であるといいます。実体が変化することはおかしいからです。
これは諸行無常と対立概念であると思います。
更に、実体は単一であるともいいます。本質が複合体ということはできないから、あくまでも単一であるという考えです。
他にもいろんな説明の仕方がありますが、このように自立的で、恒常不変でしかも永続するだけではなく、絶対に変化をしない。また、複合的ではなく単一である。この三つの条件によって実体と規定するわけでありますが、地上においてそのようなものはありませんから、実体として定義できる存在がないということで、すべては空であるという説明がなされます。
存在は夢、幻のようであり実体を持たない空の世界だからと言って、仏陀の言葉にすら依存しないというのは、私はおかしいと思います。
仏陀の教えに依存しないということは仏陀の教えを信じませんと言っているのと同じ意味になると思います。仏陀の教えを信じないということは、そもそも仏教ではないと考えます。

次に、以下のように書かれていました。
『○生存本能を滅してブッダとなったのだから
 もう、二度と生まれ変わらない、と言っていた』
生存本能を滅して仏陀になったと書かれていますが、逆であると考えます。
仏陀は苦楽の中道を悟られました。何年間かの修行は肉体を否定する、難行苦行を繰り返していましたが、それでは智慧を得ることができないと悟られ、極端な苦行を否定されました。また、堕落した、快楽中心の生き方の中で、悟りを得ることができるわけもありませんから、快楽主義も否定しました。
「快楽のなかには人格を向上させるものはない」ということによって、快楽主義は否定され、また、「いたずらに肉体をいじめるだけの苦行のなかにも、結局のところ、みずからの知を磨き、理性を磨く道はなかった」悟りの挑戦・下巻参照
つまり、生きていこうとする生存本能を否定して仏陀になったのではなく、この世は空であり、仮の存在ではあるけれども、地上生活で生きていくことに積極的な意味をみつけるなかに、悟りのきっかけがあると仏陀は考えられたのではないかと思います。
だから、仏陀になられても、二度と生まれ変わることがないということではなく、時代によって再び生まれ変わってくると思います。

以上はあくまでも自分の見解です。



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posted by ガンちゃん at 02:44 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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