自助努力と他の人に対しての優しさについて考えてみます。
自助努力と対極にあると思われるのが、他力型宗教でしょう。自分の努力では、解決しがたい問題に直面した時、人間として、他力にお願いしたい気持ちになります。
「他力の宗教のマーケットは自力の宗教の10倍ある」といわれていますので、宗教として他力は大切な信仰形態です。
しかし、人生の苦しみを自分自身の自助努力でのりこえてきた人達は、他人に対しての優しさを持ち合わせているような気がします。
自分の苦しみを通して、相手の苦しみや悲しさを理解することができるのでしょう。
相手の批判ばかりする人は、自分自身のことを棚に上げ、他の人の苦しみがまったく理解できないのでしょう。
そして人生は四苦八苦と言われるように、霊的世界からみた三次元物質世界は、かなり厳しい修行の場であると教わっています。何十年かの人生で、どうしても自力ではのりこえがたい状況が現れ、どのように判断して、問題を解決すればよいのかわからずに、迷いの世界に入ってしまいます。これは自分も含めて学んだ真理が知識だけで止まっているか、学んだ真理知識の内容が、実践を通して、自分のものとしているかによって、違った結果として現れてくると思います。
しかし、結果はどうであれ、真理を学んだ人たちは、人生の試練や苦しみや悩みを単純に嘆くのでなく、魂の肥しとして砥石として理解し、魂を鍛えているという観点で受け止めていますので、人生観が唯物論的生き方をする人たちとは明らかに、苦しみの受け止め方が違ってきます。
「人間は、たとえ、亡くなる時点において、他の人から尊敬される立場に立っていなかったとしても、その思いと行いが正しいものであれば、あの世に帰ったから、きちんとそれなりの判定がされる」と教わっています。
「人間が、永遠の転生輪廻の中を生きていく存在」ということから考えますと、やはり、自助努力があっての他力であり、何の努力もしないで、他力にお願いするということは魂的に進歩しないのかもしれません。
また、『会員信者であっても今後も困難苦難はあるかもしれないが、それを「信仰の是非あるいは善悪」の結果として受け取らないで下さい。』とも言われています。
ドイツの観念論哲学のフィヒテは、「人間が進歩発展するプロセスのなかには、霊的な力がはっきりと顕現していで、哲学者は、そのような人間一人ひとりの内なる進歩発展の原動力の奥深くまで認識の眼を向け、魂の根源を認識の光で照らしださなければならない、それが哲学者の最も大事な課題なのだ。」という意味のことを言われていたと思います。
霊的世界を知るためには、自分自身の内面を、しっかりと見つめ直すことであると思えます。
例えば、太平洋の海の水と、一滴の水は、量的にいえば比較になりませんが、両方の水はH2Oという点で共通しています。太平洋の海水(宇宙、あるいは霊的世界)を知ろうとすれば一滴の水(個人)を分析することで、知る手かがりをつかむことができると思います。
宗教的には、他力を推し進めると、広がりはありますが、内容や質の点で落ちてくると思われるし、自力が行き過ぎると、ついてくるものは、ついてきなさいという世界になってしまうので、宗教にとってはどちらも必要であると思います。
自力と他力は二律背反(上求菩提・下化衆生)していますが、人生における苦しみや悲しみを、乗り越えた人ほど、相手に対する思いやりや、優しさを持つことができ、影響力のある人になることができるのではないかと思います。
また、信仰を持つことで苦しみや悲しみ、不幸と思われる出来事に遭遇することがあると思いますが、上記にも書きましたように、「信仰の是非あるいは善悪」の結果として受け止めずに、永遠の転生輪廻の過程で、自分の魂が今、鍛えられているのだという観点が大切であると思います。
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学