観測所さん『自力と他力』について
「自分に厳しく相手に優しく」の記事にツッコミを入れていただいたので、それに対しての反論です。
『会員信者であっても今後も困難苦難はあるかもしれないが、それを「信仰の是非あるいは善悪」の結果として受け取らないで下さい。』とも言われています。
という文章にたいして、
《これは、偉大なる宗教詐欺師・大川隆法による言い訳の言葉であり、信者を思考停止させる巧妙なマインド・コントロールの言葉ですね。またしてもガンブロ氏は、無意識に、マインド・コントロールに荷担してしまっています。》
人を勝手な解釈で、マインド・コントロールされているような言い方は、どうなのでしょうか?
ちょっと、礼儀に欠けているのではないかな、と思います。
上記の意味は、「信仰心ある信者であっても人生の途上で苦難・困難に遭遇するでしょうが、人生は一冊の問題集なので結果にとらわれないでください、霊的世界は確実に存在するので、信仰心をもって努力したことは、霊的世界において必ず報われます。」という意味だと私は解釈しています。
普通は、思考停止させる巧妙なマインド・コントロールとは考えないと思います。
私自身は思考が停止しているとは思っていません。観測所さんは、ことあるごとに信者はマインド・コントロールされていると、連発されていますが、多くの信者は、一般的教養をお持ちの方で社会にでて活躍されている方であると思います。
《ガンブロ氏は「自助努力」と「他力」を比較して、「自助努力」の方が優れている、と言いたいようです。私はそうは思いません。》
これも観測所さんの勝手な思い込み、あるいは解釈です。自分自身のなかで〜と言いたいようだと予測を立てて、自分でそれは違うと言っているだけです。
私は、苦しみを努力してのりこえてきた人は、相手の苦しみを自分の経験を通して、理解することができると言っているのであって、他力より自助努力の方が優れているなど、書いていません。
ただ、努力なくして、人間として向上するということはありえません。しかしそれは、他力信仰を否定するものではなく、努力を通して、努力を超えた他力を知ることが大事であると、私は思います。
あなたがいう自力とは、自我力のことを指しているのではないでしょうか。
自分がこれだけの努力をしたのだからと、自分の努力以上の評価を他人に求める気持ち、そのような考えであるならば、正当な努力とはいえないでしょう。
いろいろ理由をつけているようですが、もし何の努力をしなければ、堕落した方向に向かうだけです。それが原因結果の法則であり、縁起の理法でもあり、代償の法則というものであると思います。
《ガンブロ氏は「他力型宗教」を批判したいようですが、どうも、ガンブロ氏は大川隆法が説いている(架空の)「他力型宗教」なるものを真実だと思い込み、実際の他力型宗教を見ずに、一方的な思い込みにより「他力型宗教」を悪しきもの(または足りないもの)と錯覚してしまっているようです。》
どうもあなたは、自分の思い込みで他の人を、批判する傾向があるように見受けられます。
私も以前、お寺のお坊さん(他力信仰型と修業型)や他宗教の方々と、議論したことがあります。
また、家族や一般の人達とも真理の話をしたこともあります。
《ガンブロ氏にも大川隆法にも共通するのは、本で得た知識だけを元に、実体験を経ず、思い込みで現実を判断してしまうということなのかなあと思います。》
「実体験を経ず、思い込みで現実を判断してしまう」と書かれていますが、思い込みで相手を判断しているのは、観測所さんの方ではないでしょうか。
自分の中で、想像して(架空の)それを真実だと思いこみ、その思い込みで相手を悪しきものと錯覚して批判しているようですが。
本で学んだ知識や経験を元に、現実を判断することは当たり前のことです。
《心の栄養 身体の食べ物:「すべての宗教は「他力」なのではないか?」 上村勝彦
仏教に「自力」と「他力」があるといいますが、「自力」といっても仏と一体になれるように努力することですから、大きな力に身をゆだねるという点では「他力」と変わりがありません。すべての仏教は「他力」であるということができます(『早島鏡正著作集13』282頁など参照)。》
上村勝彦氏の文章を引用して、私を批判しているようですが、私自身は他力を否定していないし、自力も他力も宗教として必要な教えであると認識しています。
上求菩提・下化衆生と言われているように、修行を通して自己確立していく過程で、多くの人達を救っていくという方向が、幸福の科学の教えです。ご存知かと思いますが。
私は、前記事に次のように書いています。
『宗教的には、他力を推し進めると、広がりはありますが、内容や質の点で落ちてくると思われるし、自力が行き過ぎると、ついてくるものは、ついてきなさいという世界になってしまうので、宗教にとってはどちらも必要であると思います。』
宗教によってどちらも必要ですと書いていますが、この辺は読んだのでしょうか?
ちなみに上村勝彦氏の文書は、無我の教えのことを言おうとしているのかなとも私には読めます。
大きな力に身をゆだねる他力の前に、仏と一体になれるように努力(自力)を前提にした文になっています。つまり、宗教は自力と他力の両方が必要であり、自力に比重があるか他力に比重があるかの違いで、宗教は本来、両方を含んでいます。
観測所さんは、総裁先生をののしっていますが、相手を批判するのであれば、その相手より努力をし、実績を積んでからにすべきであると思います。
いろんなブログにもコメントしていられるようですが、マインド・コントロールされているという発言は、第三者から見ると、観測所さんは知識があるから騙されたりしないが、信者さんは騙され洗脳されていると読みとれます。
過去にどのような経緯があって、総裁先生を批判するかは知りませんが、同じような批判ばかり書いていないで、読んだ人がプラスになるような記事を書くように努力された方がよいのではないでしょうか。
教養もあり、知識も豊富におもちのようなので、もったいないと思います。
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