キリスト教では、聖霊を汚す罪は大変、重い罪として位置づけています。
マルコによる福音書にはこのように書かれています。
「しかし、聖霊を汚す者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。そう言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。」
彼らとは、律法学者のことでイエス様に対して、「彼は、ベルゼブルに取りつかれていると言い、悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ、とも言った。」と書かれています。
イエス様が病気を治し、奇跡を起こすことに関しての嫉妬が、律法学者にあったと思います。
たしかに、悪霊同士でも力関係で、念の強い悪霊ほど他の悪霊を追い出して、人間に憑依できるのかもしれませんが、基本的には悪霊を追い出すのは、悟った方や聖者であって、悪霊に憑依されている者に、悪霊を追い出すことができるわけがないと思います。
世界三大宗教の一つであるキリスト教は、聖霊に対しての侮辱は大変な罪であるということを言われていますが、仏教においてはどうかと言いますと、仏教も聖者に対して悪意をいだき、そしる者は大変な罪を犯していることになり、その罪によって地獄に直行ということを言われています。
以下に仏典から引用します。
「人は生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚人は悪口を
語って、その斧によって自分自身を斬り割くのである。
毀るべき人を誉め、また誉めるべき人を毀る者−かれは口によって禍い
をかさね、その禍いゆえに幸せを受けることができない。
賭博に負けて財を失う人は、たとい自分を含めて一切を失うとも、その
不運は僅かなものである。
しかし立派な聖者(ブッダ)に対して悪意をいだく人の受ける不運(罪)は、
まことに重いのである。
悪口を言い、また悪意を起こして聖者をそしる者は、
十万と三十六のニラッブダの「巨大な年数のあいだ」また五つのアッブダ
の「巨大な年数のあいだ」地獄におもむく。悪魔との対話 岩波文庫 中村 元
どうしても肉体に魂が宿ることで、地上的な価値観や常識に縛られ、真実の霊的な自分自身を見失ってしまいます。もちろん自分自身もうまく物質世界の中で、正しく生きているとは言えませんが、最低限自分自身に降りかかってくる災難や困難に関しては、他の人や環境のせいにすることなく、自分自身に与えられた一冊の問題集として受け止めていると思います。
幸福の科学の教えを学んでも幸福になることができないと考えている人や、教えを学んで不幸になったと考えている人がいるかもしれませんが、そのような方でも私達が生活する場が、三次元物質世界だけではなく、霊的世界が理路整然として存在し、心の在り方や、認識力や愛の思いによって階層的にすみ分けられているということを、知識として学ぶことができたはずです。
なぜ、私が幸福の科学の教えから引用しないで、仏典や聖書、あるいは人智学や哲学からいろんな言葉を引用しているかと言いますと、聖書や仏典と幸福の科学で説かれている教えの内容が共通しているからです。当会の教えを素直に聞くことができなくとも、歴史の試練に耐え抜いて現在に語り継がれている真理をすべて否定できるほどの人はいないでしょう。
真理は普遍であり、時代や環境に関係なく永遠に変わることのない正しい基準です。
因果律や縁起の理法は真理であり、過去における自分自身の思いや行動が、現在の自分に帰ってきていると考えるのが正当な考えであると思います。
感覚器官や、地上的な価値観に基づいた判断で、聖者を聖者とは思わずに批判した場合、その罪は許されることがないとは聖書でも仏典でも書かれていますので、「聖霊を汚す罪は重い」という言葉は真実であると考えて間違いないと自分は判断します。
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