2013年02月06日

聖霊を汚す罪

聖霊を汚す罪

キリスト教では、聖霊を汚す罪は大変、重い罪として位置づけています。
マルコによる福音書にはこのように書かれています。
「しかし、聖霊を汚す者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。そう言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。」
彼らとは、律法学者のことでイエス様に対して、「彼は、ベルゼブルに取りつかれていると言い、悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ、とも言った。」と書かれています。
イエス様が病気を治し、奇跡を起こすことに関しての嫉妬が、律法学者にあったと思います。
たしかに、悪霊同士でも力関係で、念の強い悪霊ほど他の悪霊を追い出して、人間に憑依できるのかもしれませんが、基本的には悪霊を追い出すのは、悟った方や聖者であって、悪霊に憑依されている者に、悪霊を追い出すことができるわけがないと思います。
世界三大宗教の一つであるキリスト教は、聖霊に対しての侮辱は大変な罪であるということを言われていますが、仏教においてはどうかと言いますと、仏教も聖者に対して悪意をいだき、そしる者は大変な罪を犯していることになり、その罪によって地獄に直行ということを言われています。

以下に仏典から引用します。
「人は生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚人は悪口を
語って、その斧によって自分自身を斬り割くのである。
毀るべき人を誉め、また誉めるべき人を毀る者−かれは口によって禍い
をかさね、その禍いゆえに幸せを受けることができない。
賭博に負けて財を失う人は、たとい自分を含めて一切を失うとも、その
不運は僅かなものである。
しかし立派な聖者(ブッダ)に対して悪意をいだく人の受ける不運(罪)は、
まことに重いのである。
悪口を言い、また悪意を起こして聖者をそしる者は、
十万と三十六のニラッブダの「巨大な年数のあいだ」また五つのアッブダ
の「巨大な年数のあいだ」地獄におもむく。悪魔との対話 岩波文庫 中村 元

どうしても肉体に魂が宿ることで、地上的な価値観や常識に縛られ、真実の霊的な自分自身を見失ってしまいます。もちろん自分自身もうまく物質世界の中で、正しく生きているとは言えませんが、最低限自分自身に降りかかってくる災難や困難に関しては、他の人や環境のせいにすることなく、自分自身に与えられた一冊の問題集として受け止めていると思います。

幸福の科学の教えを学んでも幸福になることができないと考えている人や、教えを学んで不幸になったと考えている人がいるかもしれませんが、そのような方でも私達が生活する場が、三次元物質世界だけではなく、霊的世界が理路整然として存在し、心の在り方や、認識力や愛の思いによって階層的にすみ分けられているということを、知識として学ぶことができたはずです。

なぜ、私が幸福の科学の教えから引用しないで、仏典や聖書、あるいは人智学や哲学からいろんな言葉を引用しているかと言いますと、聖書や仏典と幸福の科学で説かれている教えの内容が共通しているからです。当会の教えを素直に聞くことができなくとも、歴史の試練に耐え抜いて現在に語り継がれている真理をすべて否定できるほどの人はいないでしょう。
真理は普遍であり、時代や環境に関係なく永遠に変わることのない正しい基準です。

因果律や縁起の理法は真理であり、過去における自分自身の思いや行動が、現在の自分に帰ってきていると考えるのが正当な考えであると思います。

感覚器官や、地上的な価値観に基づいた判断で、聖者を聖者とは思わずに批判した場合、その罪は許されることがないとは聖書でも仏典でも書かれていますので、「聖霊を汚す罪は重い」という言葉は真実であると考えて間違いないと自分は判断します。



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posted by ガンちゃん at 20:04 | Comment(1) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月01日

思考に影響を与える霊

思考に影響を与える霊

物質と霊的存在は、存在形式が違うように表面的には見えますが、お互い相互作用する関係にあります。
心(霊的存在)で思うことは、顔の表情として表現されます。この場合、心は霊的な存在であり、表情として現れた顔は物質的な存在であります。両者は存在形式としては違う性質を持ちますが、物質と霊は関係し、影響を相互に与えていると考えることができます。
ところが、心で感じること考えることが顔の表情として現れなければ、心をみることができません。霊、あるいは魂は人間という形に表されないかぎり見ることができません。
地中の種子も地上の樹木とならないかぎり見ることができません。
宇宙人の表現形式としての肉体も、その外見から心の傾向性を観察することがある程度、可能かもしれません。美と調和を愛する宇宙人は、美しい肉体的表現形態をとっていると思いますが、戦闘性が強く、どちらが強いかを競う宇宙人は、肉体も戦闘的な表現形式になっていると思われます。

霊と物質あるいは、肉体はコインの表裏の関係にあり、相互に影響を及ぼしています。肉体的には目や顔に心で思う思考内容が反映されていると思えます。
イエス様も目は心の明かりであると言われていたと思います。

総裁先生は、憑依についての定義を以下のように述べられています。
「霊界のある存在が、ある人に、コンスタントに(ときには一時期のみのこともあるが)憑いて、影響を及ぼしているような状態」と説明されています。
また、スウェデンボルグは「霊が人間に与える影響のなかで、人々に一番わかりにくく、もっとも影響として大きいのは、彼ら(霊)が人間の考えに影響を与え、その考えを支配するという現象である。これは、もっとも重要な問題である。だが、これがもっとも気づかれにくい」と述べています。

自分が主体的に考えて、その考えに基づいて判断し行動していたつもりが、実はその思いや考えが、自分でない他の霊的な存在の考え、そのものであったということが憑依現象であるとすると、反省し、自分の心を振りかえる作業が、いかに大切であるかと思います。

霊の考えが私達の思考に侵入し、決定的な影響を与えるということは大変な驚きであると同時に、憑依についての原理とは何かと考えざるをえません。
憑依されるには、それなりの原因があり、自分自身の心の傾向性にあった霊を引き寄せると言われています。波長同通の法則と言われています。
心で思う内容を周波数(振動数)に置き換えて、同じ周波数どうしは共振して引きあうのでしょう。

霊界では、同一空間で同時に存在することができ、霊存在どうしがお互いに意識が違ったところに向いていたら、お互いに気がつかないまま、すれ違ったりします、と教わっています。

霊界は波動の法則が支配しているように思えます。
波動・振動数の一つの特徴として、共鳴(共振)した時は、波動は幾つあっても一つの波動を形成します。霊的存在は波動としての性質を有しており、心の周波数が一致することで、複数の霊存在が一つに合体するのでしょう。
また、意識が離れている時は、回折(波が障害物の後方に回り込む現象)するのではないかと思います。

自分自身の心の針が高級霊と共振する周波数を発信することができれば、それがインスピレーションという形で降りてくることがあるのでしょうが、なかなかそのような思いを一定期間、持続して出し続けることは至難の業であることは間違いありませんので、真理の鏡に自分の姿を映すことで、極端に自分の感情がぶれないように、常に謙虚に精進し心を整えることで、少なくとも悪い方からの憑依の影響は減らすことができると思います。


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posted by ガンちゃん at 20:22 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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