唯心論と科学に接点はないか考えてみます。
唯心論とは、世界の本質と根源を精神的なもの(霊魂、精神、理性、意志など)にもとめ、したがって物質的なものをその現象または、仮象とみなす学説で、唯物論と対立する関係にあります。
「元来、あらゆる自然科学の目標は、でき得るかぎり、自然がそれ自体で、すなわち、われわれの干渉もなければ、観測もなされなかったとしたとき、あるであろうがままに記述するにあったわけでは、あるけれども、今や、われわれは、まさに、こうした目標こそ達し得られぬものである、ということを認識している。原子物理学においては、いかなる観測でも、それが観測される対象にもたらす変化を度外視することは、断じて不可能なのである。自然のいかなる特徴が決定されるか、また、われわれが観測によって何を消し去るかは、観測のしかたによって、はじめて、きめられるのである。」
自然科学的世界像 ハイゼンベルク みすず書房
上記の意味は、例えば、電子でも光子でもよいのですが、これらの素粒子は粒子としての性質をもちながらも、波動としての性質も有しています。
一つの同じ素粒子がどうして、波動としての性質(干渉、回折等)や粒子としての性質(光電効果)、あるいは、波動として観測されたり、粒子として観測されたりするのでしょうか。
それは観測する側の人間に依存しています。
観測方法をかえることで、粒子として測定されたり、波動として測定されたりします。観測方法のしかたを選択するのは、人間の意識、意志ですので、人間の意識と実在が深く結び付いているのではないかと思います。
古典物理学の基本的考え方は、人間の主観を交えないで、いかに客観的に測定するか、観測するかということであったと思いますが、今や実在は観測者の意識と深い関係がありそうです。
唯心論の考え方として王陽明の考えを、八正道ノートさんからコピペさせていただきました。
『王陽明は、「すべては心のなかにあって、心の表れなのである。だから、谷間に咲くユリの花であっても、そのユリの花が存在するわけではなく、心の状態である『寂』の表れたものが、その谷間のユリの花なのだ」というように、すべてを心に当てはめて考えていきます。これは、神や仏というか、根本の霊的存在から見れば、実は、そのとおりです。心の表れが現象化して現れてきているのです。(『王陽明・自己改革への道』p25)』
唯心論の考え方は、心の状態と現象が結びついています。観測者と観測対象、主体と客体、これらは不可分の関係にあるのみならず、区別さえできそうにありません。
心と実在の関係を考えれば考えるほど、迷路に迷い込んでしまいます。
最後にハイゼンベルクの言葉を引用して終わりにします。
「戦後、日本から理論物理学の領域ですばらしい貢献がなされたことは、東洋の伝統的な哲学思想と量子論の哲学的性格との間に何らかの関連があることを示しているのかもしれません。」
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