2013年02月20日

統一教会を幸福の科学の信者が見ると

統一教会を幸福の科学の信者が見ると

いくつかの記事を読みましたが、気にかかることを書かれていたので、その点に関して、反論していきたいと思います。

過去世の認定が変わることを持って、人間には、過去世なんてない、前世なんてないから、と書かれていました。霊的世界に関しては、認めているようですが、しかし、霊界をどのような理解しているかまでは、記事を読むだけではわかりません。
文鮮明の教えなのかどうかわかりませんが、人間には前世があり、何度も生まれ変わってくるという思想は、幸福の科学が初めてではありません。
古代のエジプトでも転生輪廻の思想はありました。近年ではエドガーケイシーや人智学のルドルフ・シュタイナーも生まれ変わりに関して言及しています。
エドガーケイシーは転生輪廻にともなうカルマの法則にもふれていたと思います。
インドでは仏陀が転生輪廻の思想を説かれていますし、キリスト教に関しては明確に転生輪廻の教えを説かれていないと言われていますが、それはキリスト教がローマの国教になる時点で、削除されたとも言われています。しかし、福音書の中で、因果応報に関しての話を随所でしています。
「人をさばくな。自分がさばかれないためである」「剣をとる者はみな、剣で滅びる」など。
霊的世界を体験し、それを思想にまで高めた方は、転生輪廻についても説明されていると思われます。

仏教では生まれ変わりを十二支縁起として分析的に説かれています。

十二支縁起とは、
「無明」・「行」・「識」・「名色」・「六処」・「触」・「受」・「愛」・「取」・「有」・「生」・「老死」からなります。最初の無明と行が過去世に対応しています。

「無明」とは明かりがない状態です。智慧の明かりがないという意味で、心の三毒「貪・瞋・癡」中心の迷った思い、考えです。貪りの心、瞋の心、愚かな心です。その思いにもとづく行い「行」があります。無明からくる行いによって、業が形成されます。過去世の無明からくる行いから、生まれ変わりの主体、輪廻の主体になる一定の意識が形成されます。その業が魂の傾向性として刻印されますと、来世生まれ変わる時の魂の主体となる「識」ができます。
この生まれ変わりの「識」が、身体の中に宿ってくることを「名色」と言います。『名』と『色』は精神と肉体あるいは、心と体を意味しているようです。
しかし実際は、「名色」の段階では、まだ意識は霊界で対機中です。一方おなかの中では、動物の子供のようなものが出来上がりつつあります。
精神と肉体という意味の「名色」は不適切であって、本当の意味では、肉体が明確化してくるという「名色」といった意味合いの言葉のほうが正しいのです。魂が宿っていないので心と体という意味の名色という言葉は正しくありません。悟りの挑戦(上)参照
それから、「六処」という「眼・耳・鼻・舌・身・意」という感覚器官が明確になってきます。感覚器官が発達してくると、その器官に対応する感触「触」を感じとります。
感触がわかるようになると、感じとる能力、感受性がでてきます。感じとったものに関して、自分の感想、考えを持てるようになる精神作用の一つです。
感受性がでてきますと、自分の好き嫌いが明確になり、欲望がでてきます。これが「愛」で、キリスト教的な博愛や、与える愛という意味ではなく、パーリ語で「タンハー」渇愛という意味です。欲望がおさまらない状態です。
つぎに「取」がきます。自分の欲望の対象を手に入れたい衝動がおきてきて、本格的な執着がでてきます。このような執着の心が何年も継続していくと「有」の状態になります。
今回の人生で身に付けた、魂の傾向性です。
そしてまた来世、生まれ変わりの「生」があり「老死」となります。

ここまで生まれ変わりを学問的に説明しているのは、仏教だけかもしれませんが。
エジプトでもインドでも、転生輪廻について説かれていますので、過去世認定が変わるからという理由で、過去世がないとか、前世がないと考えるのは、早計であると考えます。

また、人間は本来、神の子ではあるが、人間の始祖が堕落してしまったがゆえに、悪魔の子でもある、善と悪の中間位置にあるのが現実の人間の姿だと見る。これが人間観であると断言されているようです。
人間の始祖が堕落したというのは、旧約聖書の創世記に書かれている、蛇にだまされたエバが、園の中央にある木の実をとって食べてしまったことにより、エデンの園から追放された話でしょうか。
聖書には「人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである」と書かれているので、それを根拠にしているかもしれません。
すべての生きた者の母であるならば、それ以降人類はすべて堕落した存在であるという論理展開でしょうか。

しかし、蒔いた種は刈りとらねばならないという教えのとおり、すべては自己責任です。現在、自分が苦しみの中にあるとしたら、それは過去の自分の考えや行動が原因になっているはずです。
当然、私にも苦しみはありますが。
人間の始祖が堕落しようが、自由意思が与えられ、選択の自由が与えられている以上、原因は自分自身にあります。人類の始祖が堕落したからという理由は、原因は自分自身にあるのではなく、始祖が悪いからだという逃げの理論になるのではないでしょうか。
そんなことを理由にしたら自分の人生に責任がとれません。しかもそれを根拠に人間は悪魔の子でもあると書かれています。
また、善と悪の中間位置にあるのが現実の人間の姿だと見るとも書かれていましたが、因果関係が成立していないと思います。
例えば、親が悪事を犯して捕まったとしても、子供まで悪人かと言ったら別問題であるでしょう。
エバが人類の始祖がどうか知りませんが、罪を犯したのであるならばそれは、エバ自身の問題であって、我々人類には関係ない話です。

真実は、人間の魂が永い転生の過程で、肉体こそ自分自身であると誤認し、霊的な自分を忘れ去って、肉体に基づく感覚器官を喜ばす方向に行きすぎた結果である。
しかし、魂の核の部分は仏性や神性といわれる、仏神と同じ性質を有した輝きを宿しているので、過ちを反省し、懺悔したときに許しの光が降りてくるということだと考えます。
故に、悪魔の子でもあるという考えは完全な間違えであると思います。



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posted by ガンちゃん at 23:00 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月19日

魂の教育 霊的世界と実存哲学

魂の教育 霊的世界と実存哲学

プラトンは国家という書物で有名な洞窟の比喩の話を書かれています。内容は、子供のときから地下の洞窟に住んでいて、手足と首を縛られているので後ろを振り向くことすら出来ません。彼らの上方、はるかなところに火が燃えていて、その火の光が彼らの後ろから照らしています。そのような状態におかれている人たちは、自分達の正面にある洞窟の壁に、火の光で投影される影以外、見たことがありませんので、その影によって自己認識をし、お互いを理解しています。生まれたときから壁に投影された影によって自分や他人、あるいは世界を認識していますので、それ以外の世界があるという考えすら思いつかないのでしょう。また、音(声)も彼らの正面から反響して聞こえてくるとしたどうでしょう?
彼らの後ろを通りすぎていく人々の誰かが声を出すたびに、洞窟に閉じ込められた人々は、その声を出しているものが、目の前を通り過ぎていく影以外の何かだと考えるでしょうか。
ある時、彼らの一人が縛りから解放されたとしましょう。火の光のほうを強制的に仰ぎ見るように指示されたとします。いままで影によって自分自身や相手を理解していたのに、実物を見ることにより、目がくらんでよく見定めることが出来ないのではないのでしょうか。
その時ある人が彼に向かって「お前が以前に見ていたものは、愚にもつかぬものであった。しかし今は、お前は実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ」

このような内容であったと思いますが、この話に似ている本にアボットのフラットランドという書物があります。
随分以前に読んだことがありますが、霊的世界(4次元世界)を推測するうえで大変参考になった本です。
フラットランドに住む平面住人は、縦と横には移動できますが、高さ(上下)には移動できません。そのような平面世界に三次元的存在(スクエア)が来訪してくる話であったと思います。
私達、三次元に住む存在は、上下に移動できても、過去の時間と未来の時間に移動することができません。
フラットランド人は視覚を通して、あるいはいかなる推論からも『高さ』を実感することが出来ません。信仰として理解するしかないのです。
また今度くわしく書こうと思いますが、縦と横にしか空間の広がりがないフラットランド人は、『高さ』が極端に低いので簡単に感じ取ることが出来ません。
たとえば直線を私たちが見たとき、厳密にいえば、幅や高さも見ているはずです。長さしか持たなければ、三次元空間を占めることができず、私たちには見ることができないはずです。直線における高さの方向があまりにも低いため、通常は認識できないでいるだけです。三次元と四次元の関係も二次元と三次元の延長にあります。
四番目の方向が極端に小さいので観測にかからないのでしょう。四番目の方向とは素粒子の世界に関係があると自分は考えていますが、別の機会に書ければと思います。

プラトンの洞窟の話は、本来の世界、霊的世界に住んでいた私たちが、肉体に宿ることによって、霊的な感覚が極端に制限されてしまい、肉体に基づいた感覚器官という限定された機能を通してしか外界を観察することが出来なくなくなります。それを実在の影をみて自己認識しているという言葉で表現したのでしょう。

この魂の本質を考えることなしに、どのような議論を展開しても人間の本質には辿り着かないでしょう。
19世紀から20世紀にかけて実存主義哲学がはやりました。

ハイデガーの存在と時間も読んだことはありますが、難しいです。キルケゴールの『死に至る病』『不安の概念』も読んだことがありますが、あまり救われた気分にはならなかった記憶があります。(自分が理解できていなかっただけだと思いますが。)
やはり実存主義哲学は、この地上において肉体人間としての限られた世界観で、哲学を構築しているのではないかと思います。
現代的な実存主義哲学は、人間が生きていくうえで、恐怖や不安の概念、どのように生きることが人間としての正しい道なのか、その目的地が見えていないような感じを受けます。

プラトンの洞窟の話やフラットランドの話を少し書きましたが、三次元に住む私達は、実際、四次元の世界ぐらいまでが、想像できる範囲であると思います。
幸福の科学の教えには、7次元、8次元、9次元の説明がされていますので、わかったような気がするだけで、実際は5次元、6次元ですら、本当の意味で認識することは不可能に近いのではないかと自分自身は思っています。

魂こそ人間の本質で、霊的世界こそ実在の世界であるという霊的哲学を構築し、20世紀から現代にまで続いている唯物論的実存主義哲学を覆し、霊的世界における善悪の価値基準を地上に構築できれば素晴らしいことであると思います。


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posted by ガンちゃん at 22:00 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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