いくつかの記事を読みましたが、気にかかることを書かれていたので、その点に関して、反論していきたいと思います。
過去世の認定が変わることを持って、人間には、過去世なんてない、前世なんてないから、と書かれていました。霊的世界に関しては、認めているようですが、しかし、霊界をどのような理解しているかまでは、記事を読むだけではわかりません。
文鮮明の教えなのかどうかわかりませんが、人間には前世があり、何度も生まれ変わってくるという思想は、幸福の科学が初めてではありません。
古代のエジプトでも転生輪廻の思想はありました。近年ではエドガーケイシーや人智学のルドルフ・シュタイナーも生まれ変わりに関して言及しています。
エドガーケイシーは転生輪廻にともなうカルマの法則にもふれていたと思います。
インドでは仏陀が転生輪廻の思想を説かれていますし、キリスト教に関しては明確に転生輪廻の教えを説かれていないと言われていますが、それはキリスト教がローマの国教になる時点で、削除されたとも言われています。しかし、福音書の中で、因果応報に関しての話を随所でしています。
「人をさばくな。自分がさばかれないためである」「剣をとる者はみな、剣で滅びる」など。
霊的世界を体験し、それを思想にまで高めた方は、転生輪廻についても説明されていると思われます。
仏教では生まれ変わりを十二支縁起として分析的に説かれています。
十二支縁起とは、
「無明」・「行」・「識」・「名色」・「六処」・「触」・「受」・「愛」・「取」・「有」・「生」・「老死」からなります。最初の無明と行が過去世に対応しています。
「無明」とは明かりがない状態です。智慧の明かりがないという意味で、心の三毒「貪・瞋・癡」中心の迷った思い、考えです。貪りの心、瞋の心、愚かな心です。その思いにもとづく行い「行」があります。無明からくる行いによって、業が形成されます。過去世の無明からくる行いから、生まれ変わりの主体、輪廻の主体になる一定の意識が形成されます。その業が魂の傾向性として刻印されますと、来世生まれ変わる時の魂の主体となる「識」ができます。
この生まれ変わりの「識」が、身体の中に宿ってくることを「名色」と言います。『名』と『色』は精神と肉体あるいは、心と体を意味しているようです。
しかし実際は、「名色」の段階では、まだ意識は霊界で対機中です。一方おなかの中では、動物の子供のようなものが出来上がりつつあります。
精神と肉体という意味の「名色」は不適切であって、本当の意味では、肉体が明確化してくるという「名色」といった意味合いの言葉のほうが正しいのです。魂が宿っていないので心と体という意味の名色という言葉は正しくありません。悟りの挑戦(上)参照
それから、「六処」という「眼・耳・鼻・舌・身・意」という感覚器官が明確になってきます。感覚器官が発達してくると、その器官に対応する感触「触」を感じとります。
感触がわかるようになると、感じとる能力、感受性がでてきます。感じとったものに関して、自分の感想、考えを持てるようになる精神作用の一つです。
感受性がでてきますと、自分の好き嫌いが明確になり、欲望がでてきます。これが「愛」で、キリスト教的な博愛や、与える愛という意味ではなく、パーリ語で「タンハー」渇愛という意味です。欲望がおさまらない状態です。
つぎに「取」がきます。自分の欲望の対象を手に入れたい衝動がおきてきて、本格的な執着がでてきます。このような執着の心が何年も継続していくと「有」の状態になります。
今回の人生で身に付けた、魂の傾向性です。
そしてまた来世、生まれ変わりの「生」があり「老死」となります。
ここまで生まれ変わりを学問的に説明しているのは、仏教だけかもしれませんが。
エジプトでもインドでも、転生輪廻について説かれていますので、過去世認定が変わるからという理由で、過去世がないとか、前世がないと考えるのは、早計であると考えます。
また、人間は本来、神の子ではあるが、人間の始祖が堕落してしまったがゆえに、悪魔の子でもある、善と悪の中間位置にあるのが現実の人間の姿だと見る。これが人間観であると断言されているようです。
人間の始祖が堕落したというのは、旧約聖書の創世記に書かれている、蛇にだまされたエバが、園の中央にある木の実をとって食べてしまったことにより、エデンの園から追放された話でしょうか。
聖書には「人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである」と書かれているので、それを根拠にしているかもしれません。
すべての生きた者の母であるならば、それ以降人類はすべて堕落した存在であるという論理展開でしょうか。
しかし、蒔いた種は刈りとらねばならないという教えのとおり、すべては自己責任です。現在、自分が苦しみの中にあるとしたら、それは過去の自分の考えや行動が原因になっているはずです。
当然、私にも苦しみはありますが。
人間の始祖が堕落しようが、自由意思が与えられ、選択の自由が与えられている以上、原因は自分自身にあります。人類の始祖が堕落したからという理由は、原因は自分自身にあるのではなく、始祖が悪いからだという逃げの理論になるのではないでしょうか。
そんなことを理由にしたら自分の人生に責任がとれません。しかもそれを根拠に人間は悪魔の子でもあると書かれています。
また、善と悪の中間位置にあるのが現実の人間の姿だと見るとも書かれていましたが、因果関係が成立していないと思います。
例えば、親が悪事を犯して捕まったとしても、子供まで悪人かと言ったら別問題であるでしょう。
エバが人類の始祖がどうか知りませんが、罪を犯したのであるならばそれは、エバ自身の問題であって、我々人類には関係ない話です。
真実は、人間の魂が永い転生の過程で、肉体こそ自分自身であると誤認し、霊的な自分を忘れ去って、肉体に基づく感覚器官を喜ばす方向に行きすぎた結果である。
しかし、魂の核の部分は仏性や神性といわれる、仏神と同じ性質を有した輝きを宿しているので、過ちを反省し、懺悔したときに許しの光が降りてくるということだと考えます。
故に、悪魔の子でもあるという考えは完全な間違えであると思います。
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