前記事でプラトンの話をしましたので、別の切り口で霊的世界と感覚器官の関係についての考察と、没落の法則といわれるものが、本当に普遍性があるものなのか考えてみます。
物質世界、あるいは感覚的世界というのは、人間をとりまくものの一部分であるに過ぎません。人間の全体的環境にうちで、この部分だけが独立しているように見えるのは、この物質世界だけは感覚によって知覚されるのに、同様にこの環境を構成している、霊的部分のほうは知覚せられずに残されているからに他なりません。
水面に浮かぶ氷塊が周囲の水と同じ素材でできておりながら、特定の性質によって水から独立しているように、感覚的事物もその周囲の霊界と同じ素材からできておりながら、ただ感覚的に知覚される特定の性質によってこれらから、独立しているだけであると考えます。
人智学のシュタイナーは、比喩的にこのように説明されています。
「感覚的事物とは濃縮された魂的、霊的存在なのであって、この濃縮の結果、感覚がそれを知覚することができるようになったのです。事実、氷が水の一存在形式に過ぎないように、感覚的事物は魂的、霊的構成体の一存在形式に過ぎません。このことを理解したのなら、水が氷に転化するように、霊界が感覚世界に転化する可能性をも受け容れることができるであろう。」
感覚的事物は霊界から生じたものであり、霊的本性の別形式に過ぎません。
ドイツ観念論哲学のカントは、「純粋理性批判」で次のように述べていたと自分は理解しています。
カントは、感性による直観によって対象を観察し、人間精神に宿る概念によって対象を認識することができる。カントの概念は対象を認識するための枠組み、あるいは思考するための規定であり、まず経験がなければ概念で対象を認識することができません。
まず、経験によって感覚器官から与えられた情報をもとに、人間悟性(幸福の科学でいう悟りという意味の悟性とは違います)によって、対象を整理、事実判断がなされ、理性によって価値判断がなされます。また、カントのいう概念によって認識できるものとは、現象として現れた部分のみ、感覚器官により経験が確認できる範囲のものに限定されています。つまり物の本質ではなく、あくまでも五感を通して確認できる本質の一部、現象部分のみである。と『純粋理性批判』では、いわれていたと思います。
しかし、シュタイナーは、「自分の知覚できるものだけが、現実に存在すると言うことは決してできない。
知覚感覚が欠けているために、知覚できずにいる、多くのものが現実に存在するからである。」と述べています。つまり、感覚器官の機能の問題で感覚器官の性質、機能に依存した対象以外に通常は認識できないということであると考えます。
没落の法則と因果律について考えてみます。検索して調べてみましたが、当会に関係した人達を列挙して、どれだけ不幸になっていったかをまとめてありました。
しかし、私にはそこに因果関係は成立していないと考えます。法則というのであれば、そこには普遍妥当性がなければなりません。普遍妥当性とは「宇宙、世界の全体に関していえること。真理を認識した場合、われわれがそれを考えても考えなくても真理だという確信を伴うが、このようにいつどこででも承認されるべきものだ」と言われています。
空間的、時間的に変わらないということであると定義します。
もし、没落の法則に普遍妥当性があるのであれば、当会に関係する世界中のすべての人が没落していなければなりませんが、決してそのようなことはありません。
もし没落の法則を主張するのであれば、列挙した人達が当会との関係において、どのような原因や条件によってそのようになったのか、理論的説明がなされるべきであると考えます。
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