宗教の使命
宗教が果たすべき使命とは何か考えてみました。
仏教に限らず人生には四苦八苦という苦しみがあります。人間として地上で生活していく過程で必ず経験しなければならない道かもしれません。すべての人が体験するという意味で真理です。
「生」とは、生まれてくる苦しみです。霊界世界を信じる人、信じられない人、どちらでもない人いろんな人がいますが、霊界世界は実在する前提で考えれば、地上に生まれてくることでそれ以降の、「老」「病」「死」「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」の苦しみを必然的に体験することになります。
「老」の苦しみとは、肉体が自分の思うように機能してくれません。言語障害、視力障害、聴力障害、話す、見る、聞くといった機能の低下、あるいは、関節(変形性関節症等)の変形、頭髪、歯牙の脱落、記銘力・学習力の低下、同時に病気に関しても複数の病気に同時にかかったりします。また、一般的な社会面での変化も生じてきます。職業上の役割の喪失や行事などの役割の変化、経済的には、収入の減少、所得者から年金受給者への変化、家庭においても主導権の移動、家庭内役割の変化等、老いることで今までの人生が大きく変化していきます。
そして最後には「死」があります。すべての存在は消滅を内包していると言われていますが、実際に自分が死ぬ段階になって、さわやかにあの世に旅立てるのか、宗教を真実信じている人は別ですが、唯物論的な価値観で生きてきた人は、やはり「死」に対しての恐怖心を拭い去ることができないでしょう。
すべてが縁起によって成り立っているのであれば、苦しみの原因があるはずです。自分自身の現在の苦しみは偶然ではなく、過去の自分の考え方や行為が原因にあり、結果として今の自分の現状が出現しています。その原因を見抜くのは智慧の力かもしれませんが、少なくとも苦しみの原因を他の人や環境に求める考えは、自己責任から外れた考えであり自助努力を否定していると思います。
原因を見極めたなら、努力してその原因行為を取り除く、あるいは原因となる別の種を蒔いていく以外にありません。自分にない考えを他から学ぶことで、原因行為を変えていきながら真理に則った生き方をする以外にありません。
真理に則った生き方が「道」であり八正道ということになるのでしょう。
シュタイナーは、仏陀の八正道に比べたら、カントの「純粋理性批判」など子供レベルであるというようなことを書いていたと思います。(確か読んだ気がします)
これが「四諦・八正道」であり人間完成の道でもあります。
また、仏教の慈悲、キリスト教の愛は宗教としての普遍性がある教えでもあります。
イエス様は汝の敵を愛し、迫害するものの為に祈れという言葉を言われました。仏教においても慈悲という教えは非常に大事な教えであると自分は思います。
自他不二の論理は、相対立する自己と他人とが、究極の根底において同一であり、両者の対立はやがては否定されるべき現象形態にすぎない、という前提のもとに成立しています。大乗仏教によりますと、有無の対立をはじめ一切の対立からはなれた境地から、慈悲行が現れてきます。
すべては『空』であるからこそ慈悲が実現されていきます。固定的な全然異なった二つの存在のあいだには、とけあうということ、相互関係がありませんから、慈悲が起こりようもありません。しかし、私達が確認できる五感の範囲は真実を教えてくれません。
現象が変化するその奥に変化しない普遍的なものがあります。それが仏性であり神性といわれるもので、これはすべての人間が持つ神から分かれてきた人間としての本質の部分です。
すべては仏や神の子供としての仏性を持っているからこそ、すべての人間は国籍に関係なく愛しあわなければならないという教えの妥当性があると思えるのです。
現象としては自分と他人というように、対立関係で観察しますが、宗教的、哲学的な本質をみることで、人間はすべて兄弟であり、他人を愛することが自分を愛しているのと同じ意味であり、キリスト教の愛の教え、仏教的な慈悲の教えの根拠でもあると自分は考えます。
宗教の使命とは、すべての人間は霊的存在であり仏性を通して人類は兄弟であるがゆえに愛しあうことの大切さをお伝えすることであると思います。
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posted by ガンちゃん at 21:12
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