モーゼの十誡には、「人を殺すなかれ」とあります。仏教でも不殺生、殺生戒、人を殺してはいけないと教えています。
例えば、「人を殺してはいけない」という立法の命令は、カント的には、『普遍的立法の原理として妥当しうる原則』『いかなる理性的存在者の意思にも妥当するものと認められる原則』とされると思いますが、
イエス様は、このような命令に対して和解(愛の一様態)という一層高次の精神を対置させています。
ヘーゲルは、「それは、律法で戒めている行為をしないというだけでなく、むしろ、かの律法を不要と化すものであり、それによって律法のような貧しいものはもはや存在しなくなるほどに、はるかに豊かな生き生きとした充実をそのうちに宿すものなのです。と述べています。
これは、法律によって人々を規制しなくても、自分自身の思いと行動を自分自身で統御できる、あるいは、普通の生活をするなかで、法律がなくても法律を破るような生き方をしない、そのような生き方が、イエス様がいわれる愛の中に含まれる意味の一つであると思います。
「愛にあって義務観念はすべて消えうせる」という言葉もあります。
マタイ福音書のなかでイエス様は「あなたは祈る時、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい」と言われています。
イエス様は、祈りや断食にあたっては人前でそれを見せつけるような虚飾的な行為を批判しています。
とくに祈りに関しては、いかにも私は神を信心し、義務を守りそれを実行しているかのようにとり繕う言葉を戒めています。これは本心と行動が一致しない偽善者に対しての忠告だと思いますが、人間の本質が心であることを考えると、見せかけの行動や、心がともなっていない言葉などはすべて、霊的価値基準からみてマイナスということになります。
しかし自分自身の経験上、心の中で思い続けていること、思考内容はどんなにとり繕っても言葉に出てくると考えています。とくにインターネットですと、相手の顔が見えず直接会って話すわけではないので、その人の言葉(文章)の表現がその人の思いをある程度ストレートにあらわしているように考えるようになりました。
ネットはアクセスすると、家に居ながらどこにでもつながり、時間と空間の制約を受けません。時間・空間の制限をうけないという点で、霊界と非常に似ていると思います。
霊界に似ている分、その人の本性がでてきやすいと思えます。
イエス様も、「木がよければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。どうして良いことを語ることができようか。
おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである」と言われています。
また、ハムラビ法典には「目には目を、歯には歯を」という律法があります。つまり報復です。この報いの平等ということは、一切の正義の聖なる原理であり、すべての国憲の基づくべき権利です。
しかし、イエス様はこの一切の権利をすべて放棄することを要求し、このような正義、不正義の領域全体を愛によって乗り越えることを要求しています。
個人や国にしてもお互いに、自分自身を正義と考え、相手を悪という位置付けでとらえますが、イエス様は、正義・不正義という対立を愛によって乗り越えることを要求しているのかもしれません。
しかし、これは善悪の価値判断がつけられないということではありません。
善と悪があるのは知ってはいますが、それを愛によってのりこえ、より以上に高まることを要求しています。
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