人間の内には、感覚世界を超えて、より高次の世界まで認識力を拡大することができる潜在能力があると思います。キリスト教、仏教、神秘思想家、グノーシス派、神智学者、人智学者、さらにはギリシャの哲学者は、私達が肉眼で物質を見て確認し、触るのと同じ感覚で、魂や霊的世界は現実に存在するのだと語ってきました。
われわれよりも、もっと高次なる存在があるという深い感情がなければ、私たち自身が高次なる存在へと高まる力を、内部に見いだすことができないと思います。
今の時代、高次なる存在に対して、畏敬の感情を持つことは非常に大事なことであります。
しかし、現代の文明生活は、尊い存在に対して献身的に崇拝するというよりも、批判したり、裁いたり、酷評したりする方向に傾いていると考えられます。
しかし、ルドルフ・シュタイナーは、どんな批判も裁きも魂の中の高次の認識を失わせてしまうと言っています。(私は、正当な批判は大事であると考えています)
批判の時代になると、理想的なものはひきずり下ろされ、人の心の中は疑い、猜疑心といった感情が支配するようになり、信仰心や畏敬の感情、崇拝などが隅に追いやられてしまいます。
大事なことは、高貴なる存在、あるいは神仏に対しての畏敬の感情や信仰心を持ち続ける努力をするべきであると思えます。
師や先生に対しての信じる気持ちがなければ、教えが自分の内に入ってくるはずがありません。表面的に知識として記憶できたとしても、その人の魂を変化されるところまではいかないはずです。
人間は自分自身の魂の変革以外に、先生や導師の固い口をひらかせる手段を見出すことはできません。魂がある高さまで発達して初めて、次の段階に行くことが許されるのではないかと思います。
認めるべき価値があるものを、過小評価したり、軽薄し反感したり、馬鹿にしたりすることは、認識活動を麻痺させることになると考えます。
自分自身についてもいえることですが、内的になるための静寂な時間を確保し、平静の中で本質的なものと、非本質的ものを区別する認識力を養っていかなければならないと思います。
また、思考能力だけでなく、感情に対しても注意を向けていく必要があります。思考ばかり鍛えると人の気持ちに対して鈍感になる可能性があるので、思考と感情をバランスよく鍛えることが大切であると考えます。感情に関して特に注意して観察しなければいけない点は、意識の表面に現れてこない、魂の奥にある潜在意識の働きです。他を見下して優越感に浸り、知ったかぶりを抑制する努力が必要であると思えます。
また、大事な観点として、偉大なる常識人として自分を鍛え上げるということです。宗教の世界や神秘学徒になったからといって、日常の義務を怠ってはいけないはずです。
仏教でも在家信者に対しては、まじめに仕事をしながら給料をもらうことは善とされています。また、シュタイナーも、父親は一家を支える良き父親としてあり続けなければならず、母親も同様に良き母親として、また仕事においても神秘学徒になることで仕事の能率を下げてはならないと指摘しています。
仏陀の思想も、神秘体験や霊的世界について説かれていると同時に、この世的なる仕事能力についても大事な能力であると位置づけています。霊的観点と実存主義的な観点、両方を止揚統一する弁証法的あるいは中道の観点が大事であると思います。
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