2012年12月25日

信じることが前提・認識力拡大

信じることが前提・認識力拡大

人間の内には、感覚世界を超えて、より高次の世界まで認識力を拡大することができる潜在能力があると思います。キリスト教、仏教、神秘思想家、グノーシス派、神智学者、人智学者、さらにはギリシャの哲学者は、私達が肉眼で物質を見て確認し、触るのと同じ感覚で、魂や霊的世界は現実に存在するのだと語ってきました。

われわれよりも、もっと高次なる存在があるという深い感情がなければ、私たち自身が高次なる存在へと高まる力を、内部に見いだすことができないと思います。
今の時代、高次なる存在に対して、畏敬の感情を持つことは非常に大事なことであります。
しかし、現代の文明生活は、尊い存在に対して献身的に崇拝するというよりも、批判したり、裁いたり、酷評したりする方向に傾いていると考えられます。
しかし、ルドルフ・シュタイナーは、どんな批判も裁きも魂の中の高次の認識を失わせてしまうと言っています。(私は、正当な批判は大事であると考えています)
批判の時代になると、理想的なものはひきずり下ろされ、人の心の中は疑い、猜疑心といった感情が支配するようになり、信仰心や畏敬の感情、崇拝などが隅に追いやられてしまいます。

大事なことは、高貴なる存在、あるいは神仏に対しての畏敬の感情や信仰心を持ち続ける努力をするべきであると思えます。

師や先生に対しての信じる気持ちがなければ、教えが自分の内に入ってくるはずがありません。表面的に知識として記憶できたとしても、その人の魂を変化されるところまではいかないはずです。

人間は自分自身の魂の変革以外に、先生や導師の固い口をひらかせる手段を見出すことはできません。魂がある高さまで発達して初めて、次の段階に行くことが許されるのではないかと思います。

認めるべき価値があるものを、過小評価したり、軽薄し反感したり、馬鹿にしたりすることは、認識活動を麻痺させることになると考えます。

自分自身についてもいえることですが、内的になるための静寂な時間を確保し、平静の中で本質的なものと、非本質的ものを区別する認識力を養っていかなければならないと思います。

また、思考能力だけでなく、感情に対しても注意を向けていく必要があります。思考ばかり鍛えると人の気持ちに対して鈍感になる可能性があるので、思考と感情をバランスよく鍛えることが大切であると考えます。感情に関して特に注意して観察しなければいけない点は、意識の表面に現れてこない、魂の奥にある潜在意識の働きです。他を見下して優越感に浸り、知ったかぶりを抑制する努力が必要であると思えます。

また、大事な観点として、偉大なる常識人として自分を鍛え上げるということです。宗教の世界や神秘学徒になったからといって、日常の義務を怠ってはいけないはずです。
仏教でも在家信者に対しては、まじめに仕事をしながら給料をもらうことは善とされています。また、シュタイナーも、父親は一家を支える良き父親としてあり続けなければならず、母親も同様に良き母親として、また仕事においても神秘学徒になることで仕事の能率を下げてはならないと指摘しています。

仏陀の思想も、神秘体験や霊的世界について説かれていると同時に、この世的なる仕事能力についても大事な能力であると位置づけています。霊的観点と実存主義的な観点、両方を止揚統一する弁証法的あるいは中道の観点が大事であると思います。



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2012年12月21日

マズローの要求段階と体系的な教え

マズローの要求段階と体系的な教え

人は自分らしく生きようと、考え努力する存在であると思います。「自分らしく」という考えを、アメリカの心理学者アブラハム・マズローの考えを参考に考えてみます。
マズローは欲求という問題について、低次な欲求が満たされると、更に高度な欲求が現れてくると述べています。
具体的には、食事をするなど生きていくうえで最低限の欲求ですが、これを「生理的欲求」としています。この欲求が満たされると、自分自身の身の安全を求める「安全欲求」が現れ、次に仲間が欲しいことや、誰かに認められたいという「承認や自尊の欲求」に移り、今の自分自身をより向上させたいという「自己実現」の欲求に移行するとしています。
これがマズローの欲求段階説ですが、宗教に関してこの考え方をあてはめて考えるとどうなるでしょうか。人間は最初の段階では、高度な精神性を求め、神仏の存在に対して考えをめぐらすという方向には向かず、日常の生活をいかに楽しく過ごすかを考えます。あるいは肉体に関する欲望を満たそうとする最初の段階があるように思います。
しかし、日常の中で悩み事が発生し、問題を抱えたり、あるいは健康を害したりすると、人は目に見えない偉大なる存在に関心の方向が向きます。
宗教を知るきっかけは、自分自身で解決しがたい問題に直面したり、健康を害したりした時に関心が向く場合が多いのではないかと思います。

最初に肉体に基づく感覚器官から発生する欲望を充足させようとする欲求から、精神性に目覚め、宗教や、哲学や思想、人生論などに関心が向いていく段階が人生の途中であると思います。

フランシスコ・ベーコンは「浅はかな哲学は人の心を無神論に傾け、深遠な哲学は人の心を宗教に導く」と述べています。

客観的証明を求め過ぎ、確認できないものは否定するという態度は、人間を唯物論や無神論に傾けてしまう可能性があると思います。

また、宗教に目覚めてもいろんな段階の宗教があり、自分だけの判断でどの宗教が正しいのか、あるいは、どの宗教が一番すぐれた教えであり精神性を高めることができるのか迷うところがあると思います。
トマス・アキナスは、どの信仰を選択するかを判断するのは、理性であるというようなことを言われていたと思いますが、基本的に理性で判断して、正しいと思えるものと、心の教えに踏み込んだ教義があり、霊的世界からみた善悪の価値判断が説明されていることが、高等宗教の条件であると思います。
霊的世界観を提示できない宗教は、哲学や道徳と変わりがないと思います。

ヘーゲルは小論理学で、体系を欠いた哲学は学問の名に値しないと述べています。
「体系なき哲学は、どちらかといえば主観的な物の見方を表現したにすぎず、内容も勝手気ままなものである。内容は全体の一要素となるとき、はじめて正当な位置をあたえられるので、全体を外れれば、根拠なき前提や主観的確認に堕してしまう。哲学書の多くは、自分の考え方や思いを主観的に表現しただけで終わっている」と厳しい指摘をしています。

つまり、内容が全体的な観点でみると、どのような位置付けがなされているのか、部分が全体のなかでどのような関係かを説明できなければ、それは単なる主観的な思いつきと変わらないと言われています。

これは、体系的な教えは高度な哲学や宗教であると考えることができます。
幸福の科学の基本教義は、正しき心の探究であり、具体的展開としての幸福の原理です。「愛」「知」「反省」「発展」の四原理からなり、現代的な四正道です。
そして、その中心の教えは、愛と悟りとユートピア建設に収斂されます。
幸福の科学の膨大な教えはすべて、このどこかにあてはまります。つまり当会の教えは高度に体系化された宗教的な教えであり、教えを信じて三宝帰依された方は、みなさんすばらしい方々であると思います。


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posted by ガンちゃん at 22:31 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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