2012年11月04日

龍樹の八不中道と縁起について

龍樹の八不中道と縁起について

中論の第一章・縁の考察には次のように書かれています。
「滅することなく、生じることなく、断絶にあらず、常住にあらず、一義にあらず、多義にあらず、来ることなく、去ることなき、戯論が寂滅して吉祥である縁起を、説きたまえる正覚の仏陀 に、説法者の中の最勝なる人として、私は敬礼します。」大乗仏典 中村元訳

『中論』における否定的な表現の代表は、上記の「不生・不滅」「不常・不断」「不一・不異」「不来・不去」の八種の否定です。

他の哲学者の考えと比較しながら考えていきます。ヘラクレイトスは次のようにいわれています。
「自然は一瞬たりとも静止することがなく、対立に駆り立てられ絶えず流動しています。この世では、生物であれ無生物であれ、時間の経過とともに変化しないものは皆無なのだ。森羅万象は流転する。」
「存在は非存在以上の存在ではなく、非存在とおなじく存在しない。存在と無はおなじものであり、本質は変化である。」
これは、万物が変転変化する様子を表現していると思いますが、地上にあるすべての存在で、固定的なものはなく、無自性(自ずからなる性質がない)であります。

中論の第二章には、<すでに去った>ものは去らない。<未だ去らないもの>も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現にいま去りつつあるもの>も去らない。
「不来・不去」
さらに、現に生じつつあるものも、すでに生じたものも、未だ生じていないものも、決して生じない。
未だ滅びないものも滅びない。すでに滅びてしまったものも滅びない。現にいま滅びつつあるものもまた同様に滅びない。「不生・不滅」
相互依存、相互関係を説明しようとしていると自分には思えます。対立矛盾する観念と観念がお互いに依存して成立しています。それぞれの観念が対立する観念を前提にして成り立っています。
すべての存在は自己の内部に対立を含んでいて、正(肯定)・反(否定)・合(否定の否定)による弁証法的な運動法則によって止揚統一されていきますが、弁証法的な運動法則も存在自体が無自性であるからこそ、相互依存によって成立していると言えます。

縁起(因縁生・縁生・因縁法)とは、<よって生じること>の意で、すべての現象は無数の原因と条件(縁)が相互に関係しあって成立しているものであり、独立自存のものではなく、諸条件や原因がなくなれば結果もおのずからなくなるということです。なんであれ、この法則からはずれたものはないというのが仏教の主張です。
諸行無常であるからこそ縁起が成立するのであり、縁起しないものは無常ではありません。
もろもろの事物(諸法)は無自性であるがゆえに、現象界の変化も成立し、それ自体の本性を欠いているゆえに、縁起が成立します。
無自性、無常は縁起と同義に用いられています。ですから空は縁起であると言えると思います。
以上の説明で現象界は仮の存在であり、固定的で変化しない実体をもった存在ではありません。
この地上が本質を欠いた世界であるからこそ、実在世界、イデアの世界があるのではないかという考えがでてきます。
八不中道の考え方を幸福の科学の真理価値に照らして説明すると、非常に理解がしやすいと思います。
「不生・不滅」生まれることなく、滅することのないもの、それが空です。
「不常・不断」常なるものでもなく、断ぜられるものでもない。
「不一・不異」いつなるものでもない、異なる(多様なる姿という意味)ものでもない。
「不来・不去」来るものでもなく、去るものでもない。
龍樹はこの八つ否定を通して現れる中道の境地を空の真髄とみました。
生まれることなく、滅することのない「不生・不滅」とは、何であるかといいますと、生き通しの命です。総裁先生は簡単に説明されていますが、他の仏教関係の本でも、これほど簡潔に書かれた内容のものは、自分の知る範囲ではありません。
生まれることと、滅することとは対立する概念であり、「生き通しの命」という一言をもって止揚統一しています。これはものすごいことだと自分は思います。
「不常・不断」とは、永遠にそのままの姿が続くというわけではなく、死を通してすべてが無になるという意味でもありません。物質世界の法則から離れ、霊的存在になることで自由性が増し、存在形式も変わります。現在の状態が継続して続くというわけではなく、死ねば終わりといった唯物的な考えも間違えです。ヘラクレイトスが述べたように『変化』が真実であり、真理です。
「不一・不異」一なるものでもなく、多なるものでもないとは、人間の霊的生命の存在形式は、本体一・分身五という六人の魂グループが一体となって存在しています。その中の一人が地上に生まれ変わり、地上で経験した知識、智慧をグループ全員で共有することができます。
「不来・不去」来るものでもない、去るものでもないとは、霊界世界とは、はるか彼方にある世界ではなく、現在住んでいる同一空間を共有して、並行して存在しています。そして各人の心が霊的世界とつながっています。物質世界にありながら、心は霊的世界という4次元以降の高次元世界に通じているといわれています。
天台智が、心は一念三千といわれたように、思いの方向性によって天国、地獄に通じてしまいます。肉体は物質世界の法則の中で生きていながら、心は霊的世界の法則に従って、いろんな霊的世界に通じてしまいます。
四諦八正道と一念三千論 神秘体験について 参照
http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/297712574.html

物質世界が霊的世界と共存しています。現象界と霊的世界が重なり合って、波長の同通するもの同士がお互いに影響を与えあっています。これが来るものでもなく去るものでもない説明になるかと思います。

八不中道とは私たち人間の永遠の生命と霊的実相世界の秘密を解き明かしているのです。
空と阿羅漢 参照
空とは虚無主義ではなく、この世を肯定することでもありません。両極端を否定し、霊的価値観と物質的な両方の観点から見ていく仏教的世界観であると思います。

ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 23:53 | Comment(1) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月02日

龍樹の空の思想と慈悲について

龍樹の空の思想と慈悲について

大乗仏典を参考に龍樹の思想を考えてみます。もちろん大乗仏典の龍樹の関係だけでも膨大な量になりますので、その一部だけということになります。

龍樹は紀元2世紀頃、インドに出て大乗仏教の中興の祖と言われ、さまざまな宗派の宗祖になったという意味で八宗の祖とも言われています。
龍樹の空の思想とは、この地上において本当の意味で実在するものは何も存在しません。あらゆるものは見せかけだけの現象にすぎません。つまり、いかなるものであってもその本質を欠いているということです。
あらゆる事物は、他のあらゆる事物に条件づけられて起こってきます。空とはけっして無ではなく、断滅でもありません。肯定と否定をこえたものであり、「有」と「無」をこえたものでもあります。
ですので、空とはあらゆる事物の依存関係にほかなりません。すべてのものは相依って成立しています。
例えば、ある物を「長い」といいます。「長い」というのは、「短い」という観念に依存して成立しています。逆に、「短い」という観念は「長い」という観念に依存して成立しています。
「清らか」という価値表示的観念は「不浄」という同じく価値表示的観念に相互依存しています。
いろんなものが相互依存、相互限定して成立しています。これは縁起とも言います。いかなる存在であっても、孤立したものではありえません。
龍樹の思想の根本は空の思想です。龍樹の多くの著書の中で有名なのは『中論』だと思いますが、中論の『中』とは正しさという意味であり、中道のことだと理解しています。二つの対立した極端がある時に、そのどちらでもないということです。固定的な観念はすべて否定しています。

龍樹は次のように述べています。
「去るはたらきなるものが、即ち去る主体であるというのは正しくない。また、去る主体が去るはたらきからも異なっているというのも正しくない。」
一般的に、ものが去っていく場合<去る主体>があり、それと<去るはたらき>が同時にあると考えます。しかし、<去る主体>と<去るはたらき>が同一のものであるなら、2つの言葉があるわけがありません。また、<去る主体>と<去るはたらき>両者が別のものであるならば、この二つはどうして結びつくのか?だから<去る主体>と<去るはたらき>は別のものと考えても、同一のものと考えても<去るはたらき>は成立しないと述べています。ちょっと詭弁のような気もしますが、そのように述べています。
また、いったい<去る>というのは、いつのことなのだ?すでに去ったものは過去にあるわけで、また、いまだ去らないものは、未来に属します。だから、それは去らない。また、<現在去りつつあるもの>が<去る>と言えるかもしれませんが、<現在去りつつあるもの>をつきつめて考えてみますと、過去か未来のどちらかに入ってしまいます。故に、<いま現在去りつつあるものが去る>ということは有り得ないということです。

これはキリスト教父アウグスティヌスの時間論に近い考え方でないかと思います。
アウグスティヌスは『告白』の中で次のように述べられています。
「もし時間が恒常であるならば、それは時間ではないであろう。なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、また、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在も存在しないであろう。過去はもはや存在せず、未来もまだ存在しないのであるから、どのように存在するのか?また現在もつねに、現在であって過去に移り変わっていかなければ、それは時間ではなく、永遠であろう。現在はただ、過去に移り変わることによってのみ時間であるならば、すなわち時間はそれが、存在しなくなるということによってのみ存在するといって間違いないであろう。時間は過ぎ去っているとき知覚され測られているが、しかし過ぎ去ってしまったら存在しないので知覚することができない。過去、現在、未来とは心の中に存在し、心以外にそれを認めないのである。すなわち過去のものは現在の記憶であり、現在のものは現在の直覚であり、未来のものは現在の期待である。私は時間を測ることを知っている。しかし私は未来を測るわけではない。未来はまだ存在しないからである。また現在を測るわけでもない。現在はどんな長さにも広がりを持たないからである。また過去を測るわけでもない。過去は、存在しないからである。それでは何を測るのか?現に過ぎ去っている時間を測るのであって、過ぎ去った時間を測るのではない。」

一つの実体があって、それがいつまでもの続いているものではなく、因縁によってつくられたものです。また、因縁が去れば消えるということ、それが空ということです。つまり、空と縁起は同じ趣意になると思います。

また、空を体得した人は、生命力と力に満たされて、いっさいの生きとし生けるものにたいする慈悲をいだくことになるといわれています。慈悲と空とは、実質的には同じであります。
我と汝が相対しています。そこに隔たりがある限り、我と汝の対立はいつまでも続いていくでしょう。しかし、その根底にある空の境地に立って、自分の身を相手の立場に置き換えて考えてみますと、そこから本当の意味での愛が成立します。愛とは仏教的には慈悲に相当します。
また、感覚的なものは、すべて過ぎ去っていくものであり本質ではありませんが、人間の魂の核の部分は仏性、神性が宿っています。すべての現象を過ぎ去っていく空としてみながら、仏性を本質として見た時に、自他はこれ別個に非ず一体なりという考えになり、そこに他人も自分も独立した関係ではなく、すべてはつながっているという、慈悲の気持ちがおきてくるのではないかと思います。

また、大乗仏典・大智度論 中央公論社には次のように書かれています。
「例えば、「薬」と呼ばれるものは、それが効く病気との関係の中で薬として存在するのであって、それ自体の本来的な性質において「薬」として存在しているわけではないのであると書かれています。」

風をひいて頭が痛いのに、頭に傷薬をぬっても薬としての効果は期待できません。

「仏の教えの中で、貪欲・瞋恚・愚痴という、人々の心の病を治療することについて語られる場合にも同様なことがいえます。
身体を不浄であると観察すること(不浄観)は、貪欲という病に対しては適当な対症的治療法と呼ぶことができますが、瞋恚という病に対しては適当なものということができず、対症的治療法ではありません。なぜなら、身体のうちに諸々の欠陥があることを観察するというのが不浄観なのであり、
もし、瞋恚という病におかされている人が自分の身体に諸々の欠陥があることを観察したならば、ますます瞋恚の炎が燃え上がることになるからです。
また、慈悲の心を思い起こすことは、瞋恚という病に対しては適当な対症的治療法ということができるけれども、貪欲という病に対して適当なものということはできず、対症的治療法ではありません。
なぜなら、慈悲の心というのは、人々の内にある好ましいことを見つけ出して、その長所を観察することでありますが、もし貪欲の病におかされている人が、他人のうちに好ましいことを見出してその長所を観察するならば、きっとますます貪欲になるからです。
また、物事はすべて原因や条件から成り立っていると観察すること(因縁観)は、愚痴という病に対しては、適当な対症的治療法ということができますが、貪欲や瞋恚といった病に対しては適当なものとはいえず、対症的治療法とはいえません。
なぜなら、まず、はじめに誤った観察(邪観)があり、この誤った観察から誤った考え(邪見)が生じてくるからであります。そして誤った考えというのは愚痴(おろかさ)に他ならないからであります。」

相手に合わせて対機説法ができるということは、慈悲の現れの一つであると考えます。


ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 12:44 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。