仏教的人生観に縁起の理法という教えがあります。今の自分の状況は、過去の自分の考え方が原因であり、その考えを行動に移した結果が現在の自分に跳ねかえっているので、現時点での自分の有り方が苦しみの中に有るならば、過去の自分自身の考え方や行動に対して、仏教的な価値観を判断基準として、反省しなさいというのが縁起の理法的な考え方だと思います。
これは、人間には完全な自由意思が与えられているという点と、苦しみの原因が、他の人や環境に有るのではなく、常に自分自身に帰ってくるという自己責任の考え方であるともいえます。
我々は、常に正しい価値判断をするために、真理を学んでいます。初めは知識として真理を学び、やがて自分の魂の傾向性まで落とし込み神仏に近づいていくという考えが大事であると思います。
しかし、結果に対しての自己責任の部分を、姓名判断や、その他自分以外のところに持ってきた時に、反省はあるのでしょうか。
物事を判断する時に、自分の意志や学んだ真理から判断するのではなく、○○によるとこうですとか、名前の画数を原因に持ってくることは基本的に間違えであり、自分以外に原因を持ってくることは基本的に、自己責任から逃げていると考えます。
LEOの知的生活のすすめより、勉強や努力について書かれた記事があります。
少し文書が長くて読むのにつかれてしまいますが(笑)、LEOさんの独自の鋭い視点から考察されているので、読むことをおすすめ致します。
http://ameblo.jp/space-people/entry-11313099945.html
努力や精進について、『仏教を知るために』渡辺昭宏氏を引用します。
「われわれが行動するにあたって、まず正しい見解(正見)に従って方針を定め、それを実行する決意(正思惟)をし、正しい言葉と行為と生活方法(正語・正業・正命)を実践するが、実際にその原動力となるのが正しい努力(精進)によるのである。〜中略〜
努力についても邪を捨てて正を選びとらなければならない。これを次のように四段階にわけて考察します。第一に、まだ生じていない悪が今後も生じないように、第二にすでに生じている悪をなくするように、第三に、まだ生じていない善を生じるように、第四に、すでに生じている善を確立し、さらに発展させるように、それぞれ努力すること、これが“正しい努力”である〜中略〜
仏教はこういう意味で努力を信者たちに教えました。
しかし、仏教が日本までくると、本来の努力という意味だった“精進”という語が“心身を清める”ということから、さらに一転して、肉食を避け採食するという意味に変わってしまった。この点からみても、仏教の活力にあふれていた精神が形骸化してしまったことがわかる。」と書かれています。
短い文に鋭い考察がなされ結論がみえている渡辺氏の洞察力が伺えます。
基本的にHSの説かれている法も、自助努力の教えであり、自分を作りながら利他の方向に行く、自分の内面を確立していく過程で、他の人に対して良い影響を与えていくという教えであるので、努力や自己責任をはずした、○○判断やそれに関係する類のものは、本来の仏教的な精神に基づく正しい道ではないと思います。
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